尊厳死 死の自己決定 延命措置

死の自己決定

尊厳死」とは、過剰な延命措置をせず、人間の尊厳を保ちながら安らかに命を終えることをいいます。
自分で意思表示できない状態に陥った際に、その意思を生かせるようにと記しておくのが『尊厳死宣言書』です。
その内容は、「死を避けられない重篤な状態になったとき、延命措置を施さないでほしい」「苦痛を和らげる処置は最大限利用したい」「結果については患者の責任であり、家族も病院や医師の責任を問うことはない」など、もしもの時に死の自己決定を伝えるものです。

ある研修会で京都大学大学院特任教授のカール・ベッカー氏の講義を拝聴しました。
ベッカー氏は尊厳死にかかわる自己決定をしておかないと、
「本人が望まない末期を迎えることになる」
「医療者は回復を見込まれない治療に奔走される」
「家族は介護に追われ精神的・肉体的・経済的に追い込まれる」
「高齢者医療に多額の税金が投入される」と問題点を列挙されました。
先進国では自己決定は当たり前であり、その点で日本は遅れているとのことでした。

家族の覚悟

別の機会に、葬祭カウンセラー・行政書士の勝桂子氏の講義を拝聴する機会がありました。

勝さんは昨年父上を亡くされました。
父上は複数の臓器が機能不全状態となり集中治療室に運ばれたそうです。
そのとき、本人が上記の内容で『尊厳死宣言書』を記しているにもかかわらず、医師から家族に延命治療を勧められたそうです。

医師の「命を救える」という言葉の裏には、寝たきりになっても延命することが何より優先されるべきという考えが隠れており、孫娘におむつ姿を見せたくないという本人の「尊厳」は無視されていると感じたそうです。
「治療をしないのは医療倫理に反する」という医療者からのプレッシャーは相当大きかったとのことです。

一般的に、親族や世間の圧力を考えて、本人の尊厳より延命治療を選択してしまう日本人は多いと思います。
寝たきりになっても、下の世話をされてでも、生きている方がよいという世間の考えと、介護を受ける当事者、介護をする家族は本音を言ってはいけないという日本人の美徳が、自己決定による尊厳死を遠ざけているようにも感じます。

日本は超高齢社会となり、介護ビジネスは繁栄しているかのように見えますが、ベッカー氏の指摘のように介護従事者は疲弊し、財源にも限りがあるのが状況です。
今後政府は在宅医療を進めようとしていますが、かつて「嫁」が担っていたような在宅介護ができるでしょうか。
老々介護・介護離職・燃え尽き・心中などの問題に対応するためにも、自己決定による尊厳死と家族の覚悟について話し合っておくことが必要だと思います。

病によりて道心は起こり候

日蓮聖人は『妙心尼御前御返事』というお手紙の中で、
「このやまひは仏の御はからひか。(中略) 病によりて道心は起こり候ふか」
(この病気は仏のお計らいかもしれません。病気はたしかにつらく悲しいけれど、病気で悩むことによって、仏の道を慕い、仏の道を求める「仏道心」が起こることでしょう)
と説かれています。
 
前述の勝さんの家族は、延命治療を断りました。
そして、集中治療室の中で、死期が近いお祖父さんに孫たちが「大学に合格できるように」「もう少し背が高くなるように」など具体的なお願いをしたそうです。
意識がはっきりしていたお祖父さんは、仏となって孫たちの成長を見守り、願い事をかなえることが死後の目的であると自覚して笑っていたそうです。
本人と家族の覚悟が響き合い、まさに病によって仏道心が芽生えた瞬間ではないでしょうか。
その三日後、勝さんの父上は安らかに息を引き取られたそうです。

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