現代葬儀事情 家族葬の功罪 葬儀 家族葬

家族葬の功罪

「高齢で亡くなり友人も少ない」「弔問客の接待に追われる遺族の負担が大きい」「費用の負担を抑えたい」等々の理由から、葬儀の小規模化が進んでいます。
そして、仕事の関係や近隣には声をかけずに家族などの近親者だけで葬儀を行う「家族葬」が、今や葬式の主流になりつつあります。

結婚式は招待されなければ出席することはありませんが、お葬式は人づてに訃報を知ったならば、喪主から連絡がなくても参列するというのが常識でした。
今、家族葬の増加によって、その常識が崩れつつあります。
訃報を耳にしても家族葬なら弔問を控えるのが新常識となっているそうです。

読経は僧侶に任せ、遺族は焼香する大勢の弔問客に向かって答礼を繰り返している葬儀よりも、参列者全員が故人の方を見て送る家族葬の方が丁寧なお別れができるという点が、家族葬が受け入れられてきた大きな理由だと思います。

しかし、家族葬の後、「なぜ知らせてくれなかったのか」「私もお別れをしたかった」などの連絡が来る場合もあります。せっかく故人が築いた縁を切るようなことになってよいのだろうかという意見も耳にします。
人はたくさんの人と関わりながら生きています。

しかし個人主義が浸透し、ネット社会となった現代において、家族は故人のごく一部の人間関係しか知らない故に、家族葬が増えてくるのも世の流れかもしれません。そ
れはまた、社会全体の絆が弱まっていることも意味しているように思います。


直葬でよいのか

以前小欄で「弔う」の意義について以下のように述べました。

①別れる=社会的意義
交流があった方々と別れを告げること。
②葬る=物理的意義
 遺体の処理。火葬・埋葬をすること。
③悼む=心理的意義
 泣いたり悲しんだりして、心の苦痛を発露すること。
④送る=宗教的意義
 故人の魂を死後の世界に送ること。

「弔う」とは、①~④を一連の儀式の中で総合して行うものです。

しかし、「家族に負担をかけたくない」「お金もかけなくてよい」「無信心だから坊さんも呼ばなくてよい」「自分一人で逝くのだから誰も呼ばなくてよい」と考えていくと、葬る=物理的処理だけが残ります。
その結果、火葬だけをする「直葬」ということに行きついてしまいます。 

身寄りがない方や、遠い親戚しかいない方など、直葬もやむを得ない場合もあるかと思います。
でも、家族がいるのに火葬・埋葬のみの直葬でよいものでしょうか。
そこには、死生観・宗教観の希薄化が根底にあるように感じられます。


葬儀は仏法に出会う機会

現代の葬儀事情の中では上記④の「送る」という感覚が抜け落ちてしまいがちです。
死んだらどこに行くのかを生前からよく考え、家族とも話し合い、日頃から、お寺にお参りをして、仏法に触れる機会を持つことをお勧めします。
訃報を聞いて参列した人にとっても、葬儀は仏法に触れ、生と死について考える貴重な場となることでしょう。

日蓮聖人は『上野尼御前御返事』というご遺文のなかで、
「法華経方便品に、この経を受持する人は、百人なら百人すべて、千人なら千人すべて、一人も残らずに仏になると説かれている」
と述べられています。

亡き方のために、法華経とお題目で送ることによって仏に成るというのが日蓮宗の葬儀の基本です。
それが参列された方々の法華経との縁結びにもなり、皆の成仏の道につながるのです。
葬儀は自分だけのものではないということを理解して、どのような葬儀にしたいのかを考えてみてください。

まんだらエンディングノート

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