亡き後のこと  自分がいない未来 明るい未来 死後の世界

自分がいない未来

自分が死んだ後も、地球は変わらず回り続けると誰もが知っています。
そして自分がいなくなっても、現在を生きる私たちが未来に何らかの影響を与えることも承知しています。

林立する高層建築、空中に張り巡らされた高速道路、パソコンやスマホによる情報通信等、50年前には夢の未来社会として思い描かれていた姿が21世紀になって次々と現実になりました。
それらは先人が積み上げてきた技術と努力のたまものです。

しかし、これから先の未来に思いを馳せると、自然破壊や大災害、戦争や疫病、人口減少等、不安要素を挙げればきりがありません。
自分が生きているうちに大災害は来ないで欲しい、安穏なまま人生を閉じたいと思うのも正直なところでしょう。
また、自分の子供や孫が、生活に困ることなく、健康で幸せな一生を送ることができるようにと祈る気持ちもあるはずです。
明るい未来を思い描くことが難しくても、私たちはそれぞれの立場で役割を全うし、何かを遺し、後継者に伝え、未来の礎を築いていく責任があると思うのです。

死後の世界

多くの宗教が、来世と現世のつながりを説き、死後の世界を示しています。
「良いことをしたら天国へ、悪いことをしたら地獄へ」という今生の行いが直接来世に影響するような考えや、「祖霊となるって近くの山から子孫を見守る」という土着のつながり等々、死後の行き先は文化や宗教によって多種多様です。

仏教では、迷いの世界である「六道」(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上)を生死流転することを「六道輪廻」といいます。
死後、地獄に堕ちたり、人間に生まれ変わったりする段階では、いまだ迷いの世界に留まっていることになります。
そして輪廻から脱し、悟りの世界である「四聖」(声聞・縁覚・菩薩・仏)に至ることを「解脱」といいます。
四聖の中でも究極の悟りを得て「仏」に成ることが仏教徒の最終目的です。

日蓮聖人はこの目的を達成するには法華経信仰以外にはないとお説きになりました。
日蓮聖人の教義の中では、お釈迦さまが法華経を説かれたインドの霊鷲山は、仏がお住まいになる浄土であるという考えから「霊山浄土」といわれています。
霊山浄土は現存する山というだけではなく、お釈迦さまのもとで共に仏に成るための究極の境地でもあるとされています。
日蓮聖人は、私たちが霊山浄土へ行き、お釈迦さまに詣でるための唯一の条件は、法華経を信じ「南無妙法蓮華経」のお題目を受持することだと教示されました。
六道と四聖を合わせた「十界」は私たちの一瞬の心の中に具わっており、お題目を唱えると心の中の「仏」が目覚め、霊山浄土のお釈迦さまにまみえることができるというのです。
つまり、霊山浄土は死後の行き先でもあり、現在を生きる私たちがいつでも行き来できる信仰の極みの場所でもあるということです。

未来を見守る

日蓮聖人は『開目抄』の中で
「我、法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返てみちびけかし」
(日蓮は法華経の信心をつらぬいて法華経が永遠に説き続けられる霊山浄土に参り、その霊山浄土からこの娑婆世界に帰って人々を導くのだ)
と説かれています。

生前中も亡き後も、霊山浄土から人々を導き続けるという決意と慈悲の大きさが伝わってくきます。 
世界の様相が大きく変わる現代、未来の予測はより困難になりました。
それでも今なすべきことを見極めながら、できることを積み重ね、お題目をお唱え、今を精一杯に生きて、死後にはお釈迦さまや日蓮聖人と共に、霊山浄土から未来の世界を見守れるように努めましょう。

まんだら

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