芳心院の信仰と池上本門寺 1、芳心院の生い立ちと略伝 芳心院 池田光仲

1、芳心院の生い立ちと略伝

芳心院は紀州藩祖徳川頼宣の第一女。名を茶々姫といい、鳥取藩祖池田光仲に嫁したことから因幡姫とも呼ばれる。

寛永8年(1631)9月22日生まれ。出生地については、池田家の史料では江戸紀州藩邸にて生まれたとあるが(註1)、紀州家記録である『南紀徳川史』からは、紀州にて生まれていることが窺われる。
母は加藤氏(瑶林院)。生母は側室中川氏(理真院)である(註2)。

芳心院は寛永10年7月5日に母加藤氏(瑶林院)とともに江戸へ下向し、以降は江戸紀州藩邸にて生活する(註3)。正保2年(1645)4月18日に池田光仲に嫁し、同4年12月22日に光仲との間に綱清(鳥取藩二代藩主)を、慶安3年(1650)10月11日には仲澄(鳥取支藩新田藩祖)を設けている。

芳心院は光仲と共に池田家上屋敷にて生活したが、実父である紀州頼宣より頂戴した渋谷の屋敷(隠田屋敷)も所有していた(註4)。

貞享2年(1685)に光仲が隠居するに伴い、翌3年4月19日、池田家上屋敷より芝金杉の下屋敷に移る(註5)。

元禄6年(1693)7月7日、国元において光仲が歿すると、「池上本門寺の聖人」を芝の屋敷に招じて落飾するが、芳心院はその髪を使者の託して鳥取に送らせ、光仲葬送時に光仲棺上へそれを供えている(註6)。

また、芳心院妙英日春の法号は、万治3年(1660)以前に授けられていることが確認できるものの(註7)、藩内では光仲歿後の落飾時より芳心院君と呼称されるようになった。

光仲歿後の芳心院は、芝の屋敷にあって大きな存在感を示していた。長年にわたって芳心院に仕えた年寄藤枝(藤衛)の甥など、芳心院の「御頼」にて仕官した人物は、池田家文書『控帳』(註8)や『因府年表』に特記され、数人が確認できる。

中でも、史料上芳心院との関係は未詳なものの、光仲生前の貞享4年(1687)に芳心院「御頼」にて召し抱えられた浪人山脇六郎右衛門は、芳心院に重用されたようで、光仲歿後には芳心院歿年に至るまでのほぼ例年、国元にあって盆、暮の光仲墓参における芳心院の代参役を勤めている。

また、綱清娘の峯姫(後に芳心院の意向で遊姫と改名)の養育や、国元に隠棲した綱清へ定期的に茶を送り、綱清はそれを家臣と共に喫するなど、芳心院の事蹟は池田家の史料上に散見する。

芳心院の鳥取池田家における存在の大きさは、徳川家康の孫としての貴種性に裏付けられたものであることは言うまでもない。それは万両塚の基礎背面銘や骨蔵器銘に堂々と「東照大神君令孫」と記されていることが如実に物語る。

【註】

1、『鳥取藩史』第三巻(鳥取県立中央図書館 昭和45年)世家三「光仲公夫人徳川氏」

2、『南紀徳川史』第一冊、南龍公 公子譜略 茶々姫君項。理真院は万治元年10月9日に亡くなり、紀州養珠寺に葬られたが、明治8年に和歌山報恩寺(現、日蓮宗本山)へ改葬された。また、池上本門寺院家筆頭を勤めた大坊本行寺の過去帳には「理真院妙尊日覚、紀州二之丸殿」と記されており、池上でも供養が行われていたことが判る。

3、『南紀徳川史』第一冊、南龍公 御簾中譜略 瑶林院殿項

4、『因府録』巻第弐 隠田御屋敷の事。〈『鳥取県史』6近世資料(昭和49年)所収〉

5、『因府年表』〈『鳥取県史』7近世資料(昭和51年)所収〉

6、興禅院殿御葬式記(『鳥取藩史』第三巻)

7、瑶林院芳心院願経[図版18]

8、鳥取県立博物館蔵「池田家文書」中にある鳥取藩執政の藩政日記。本稿では特に註記しない限り、記述の多くをこの史料に拠った。

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