永寿丸伝説と万両塚 永寿丸は誰か? 永寿丸 日遥聖人

永寿丸は誰か?

池上本門寺の塔頭で、芳心院の塔所である永寿院は、開創当初、蓮乗院と号した。

第六世日秀聖人代に芳心院が帰依した。
その時、息子の永寿丸が多病であったため、池上本門寺へ病気平癒の祈願を為し「永寿丸が本復したならば出家させる」との祈請をたてたところ願が叶った。
しかし、芳心院は永寿丸の剃髪を惜んで、永寿丸の代わりに観成院日遥聖人を猶子として出家させ、やがて蓮乗院の住職とするとともに、この時芳心院自らが、蓮乗院の院号を永寿丸に因んで永寿院に改めたと伝えられている。

これは、古来より永寿院に伝わる縁起であり、寛政10年(1798)の「扶持方修覆料下附願」等に記されている。

しかしながら、鳥取池田家の家譜には、芳心院の実子で実際に永寿丸を名乗った人物はいないため、伝承そのものを疑わねばならない。
ただし、この永寿丸に比定すべき人物としては、11歳の万治元年(1658)より疱瘡を患い、その平癒を懸命に芳心院が祈願した、第一子の池田綱清(鳥取藩二代藩主)が挙げられる。

だが、日遥聖人が芳心院の猶子であるかについては、他に史料が無く疑問と言わねばならない。

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永寿院の命名

では永寿丸伝承に仮託して語られる、永寿院の院号である「永寿」には、いかなる意味が考えられるであろうか。
永寿院の縁起の中で、芳心院の由緒が占める部分が極めて大きいことを考えると、この永寿院の院号は、やはり芳心院が関連しているものであることは間違いないであろう。

永寿院(池上本門寺)と芳心院の関係は、紀州徳川家時代より続くものと思われるが、池田綱清の罹病と本復は、芳心院の永寿院(池上本門寺)への帰依を、更に篤くさせる契機となったことは言うまでもない。

それは、永寿院の隣地に芳心院の逆修塔(寿塔)である、万両塚が造営されたことに象徴される。逆修とは生前に自身の供養を為す宗教行為であるが、世俗的には延寿の意味もあることから、「永寿」は芳心院寿塔である万両塚を象徴する語彙であると思われる。

他を圧する万両塚の規模や、徳川家康の孫という芳心院の世俗的立場を考慮するに、「永寿院」とは万両塚に関連して、芳心院自らが命名した院号である可能性が大きいように思われる。

万両塚

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