芳心寺と芳心院分骨の鳥取移送 芳心院の位牌所 芳心寺 芳心院の分骨

芳心院の位牌所

宝永6年(1709)2月3日、鳥取における芳心院の位牌所は正福寺とされた。
先に亡くなった長源院の位牌所は富士大石寺(現日蓮正宗総本山)末である日香寺であったが、芳心院の位牌所が正福寺とされた背景には、芳心院の遺志があった。
すなわち、芳心院は生前、「池上上人」つまり池上本門寺貫首に「池上と一派之寺」を位牌所にして欲しいとの意思を伝えていた。

日香寺は宗祖直弟である六老僧の日興聖人を門祖とする、富士門流の流れを汲む一派の寺院であり、「池上と一派之寺」ではない。
他方、正福寺は京都・妙顕寺(現日蓮宗大本山)を本寺とする四条門流の寺院である。
四条門流の門祖は同じく六老僧の内の日朗聖人であり、池上本門寺の池上門流と門祖を一にしている。
つまり大局的な意味において「池上と一派之寺」と言えるのである。
池上より書状をもってこのことを知らされた鳥取藩では、芳心院の「思召」を尊重して位牌所を正福寺としたのである。
正福寺は、慶安2年(1649)に歿し池上本門寺に葬られた、光仲弟の仲政(本高院瑞圓日清)の位牌所でもあった。

位牌所の決定を受けた正福寺には、2月5日、鳥取城中において芳心院の戒名が渡された。
そして、芳心院位牌を奉安する法事が同月26日より28日まで正福寺において営まれている。

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芳心院の分骨

さて、前述のように芳心院の遺骨は万両塚に納められたが、それ以前に鳥取へ送るための分骨が行われていた。
芳心院の分骨は、逝去翌年の宝永6年10月24日八つ時過ぎに正福寺に到着した。
鳥取藩の役人と共に、池上より芳心院遺骨を奉じてきたのは、永寿院隠居観成院日遥聖人であった。
鳥取藩は当初、永寿院住職に遺骨の供奉を頼み、住職である日好聖人が供奉を勤める予定であったが、「寺役有之」ため急遽、隠居である日遥聖人が代役を勤めたのである。

この「寺役」とは宗祖御命日の10月13日を結願として営まれる、宗祖遠忌報恩法要で、「秋の大会」として本門寺で特別に重要としている法要である「御会式」に出仕するためのものであろう。

なお、日遥聖人の鳥取逗留中の宿坊には、正福寺塔頭本慈院が宛てられた。
日遥聖人は翌月4日まで鳥取に逗留し、11月2日には綱清より料理を遣わされ、白銀2枚を拝領している。

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芳心院の一周忌

芳心院遺骨が到着した翌日、綱清は芳心院一周忌を11月26日より28日まで、正福寺において営むことを命じた。
翌26日と27日には家老から女房までの全ての家臣が正福寺に参拝してる。
芳心院一周忌は法事料白銀20枚をもって予定通り営まれた。

『因府年表』の編者は、芳心寺の芳心院墓塔[写真2]はこの時建立されたのではないかと推定しているが、芳心寺墓所の廟前石灯籠[写真3]が芳心院一周忌である「宝永六己丑年十一月二十八日」に献納されていることは、この推測を裏付ける。

正徳3年(1713)2月28日、鳥取藩は正福寺に対し、芳心院の分骨と位牌を奉安せるにより、寺領米として
30俵を遣わすこととした。
寺領を遣わされた正福寺では、3月11日に寺号を以後、芳心寺と改めたき旨を申し出、藩の許可を得ている。

なお、池上本門寺での芳心院一周忌は、宝永6年11月27日より12月8日まで営まれ、27日の法要には藩主吉泰も出席した。
この芳心院一周忌の法事料は白銀100枚であった。
また、前日の26日には綱清による御添法事が営まれ、綱清は法事料として白銀20枚を供えている。綱清は鳥取在住のため、この法事には家臣小谷伝兵衛が代参を勤めた。

芳心院の分骨

芳心寺 芳心院の分骨

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