死の覚悟=生きる使命の発見 宗教にしかできない事 勝 桂子(すぐれ けいこ)先生の特別講義が行われました。 池上 市民大学

勝 桂子(すぐれ けいこ)先生の特別講義が行われました。

4月20日の池上市民大学では、勝 桂子(すぐれ けいこ)先生の特別講義が行われました。

今回の特別講義は、勝桂子先生とご家族の体験を基にお話してくださいました。

皆さんは尊厳死宣言というものをご存知でしょうか?
要介護、認知症と診断された場合、自身は治療を望むのか?と聞かれると私の場合も早く楽になりたい、家族に迷惑はかけたくない、という気持ちになってしまいます。
尊厳死宣言とは、本人が意識のない状態では延命治療は不要と意志表明をすることです。

しかし、尊厳死宣言をされている場合でも、この尊厳死が適用されない場合があります。
救急車を呼んだ場合、本人の意志とは関係なく延命治療が行われます。
これは、『救急車を呼ぶ=助けてほしい』という意志表明をしている、救える(長らえる)とわかっているのに治療をしないのは医道倫理に反する、と医療の現場では捉えられるからです。
尊厳死を望んでいても、救急車の搬送先でご本人が延命治療をしないと改めて宣言しなければ摘要されないという問題もあります。
このような背景から、全てではありませんが、介護は人為的に作られているのではないかと思える節もあります。尊厳死宣言をしてご本人が『死ぬ覚悟』をしていても、その家族も治療を打ち切るという選択する決断が必要でないかと勝先生はおっしゃっていました。

死の覚悟=生きる使命の発見 宗教にしかできない事 勝 桂子(すぐれ けいこ)先生の特別講義が行われました。 池上 市民大学

選択責任と決断 なぜ決断できたのか?

医療が発展途上中の時、医療従事者が救いたくても救えない命を宗教家に教えを乞う事が多く、宗教は『死ぬための道しるべ』を見出す事で、昔は医療と宗教は密接に関わっていました。

しかし、現代では医療の進歩が進むにつれて救える命が増え、宗教は亡くなった後の儀礼を担当するだけと、医療と宗教は完全分業制になってしまい、本来宗教が見出す『死ぬための道しるべ』が見出せなくなってしまったのではないでしょうか。

昔と現代とを比べると、昔は『死』というものにあがなえず、宗教が心の支えとなり、『死ぬための道しるべ』を作っていたところが、現代では医療の発展とともに『死』というものを受け入れづらくなっているのではないかと感じました。

ご本人の家族という視点に変え、皆さんは本人が『死ぬ覚悟』が出来ていても、その家族は延命治療を打ち切るという選択は出来るのでしょうか?

その選択をする決断に至るまでの体験を勝桂子先生はこうお話してくださいました。

決断したきっかけは、お父様がICUに入り治療をされているときにご本人と少しの時間お話できる時間があり、その際本人はこれ以上の治療は望んでいないと思い決断する事ができました。
その翌日、お父様の状態が少し回復し、最終的にはお父様の意志で打ち切る事となりました。

勝桂子先生のお父様が『死』を覚悟したタイミングとはどのような状況だったのかというと、戦争の体験をお孫さんにお話しした際とおっしゃっていました。

『戦時中は生きている事が普通ではなく、運よく生き延びることができた。その後の人生はオマケ』と、お話してくださったそうです。

この壮絶な戦争体験があったからこそ、勝桂子先生のお父様の『死ぬための道しるべ』ができ、尊厳死宣言という『死ぬ覚悟』ができたのではないでしょうか。

死の覚悟=生きる使命の発見 宗教にしかできない事 勝 桂子(すぐれ けいこ)先生の特別講義が行われました。 池上 市民大学

死の恐怖は仏教によって『この世は仏さまの世界への寄り道』

では、『死ぬための道しるべ』とはどのように見出していけばよいのでしょうか。

勝先生の次女の今律(いまり)さんが、「私たち中高生にとって人生の先輩である皆さんがたの世代のかたと若い人が話すことは、老いや病気について知るよい機会。〝私たちが話すことはWIN WINだから〟といえば、きっと耳を貸してくれる若者は多いので、もっともっとお孫さんや甥御さん姪御さんに話しかけてください」と受講生に訴えかけました。
孫世代の彼女の言葉は、介護世代の当事者である受講生にいろいろな形で響くものがあったようです。

もし、余命宣告をされ死というものを受け入れられないとしたら、『寄り添い』や『傾聴』、『手を取り体温を感じる』という事で『死の恐怖』が薄まり『死ぬための道しるべ』を見出すことができるのかもしれません。
しかし、日本には30年前には『死ぬための道しるべ』は元々あり、『お迎え』が来るという考え方を心の支えにして、それが依り代となっていたのではないか。

また、元々仏教伝来前からの日本人の来世観は、死んだら終わりではなく、生と死のサイクルを繰り返し、いつか『祖霊』となれるという考え方から、『死の恐怖』はそこまでなく、『死ぬための道しるべ』があったのではないかと勝先生はおっしゃっていました。

では、昔はあった『死ぬための道しるべ』がなぜ現代では見出しづらくなったのでしょうか。
それは、昔と現代の宗教観の違いで、『お迎えが来るというストーリーの喪失』や、『来迎図や地獄絵図を見る機会がない』など、あの世のというイメージがわかなくなってしまったことによるものです。
このことによって、お寺での供養の必要性が薄れてきてしまっているのではないかとお話してくださいました。

現代では薄れてしまったあの世の存在。
最後にあの世があるからこそ安心して生きることができる=『死ぬための覚悟ができる』のではないかとお話してくださいました。
あの世の『存在』も証明できないが、『非存在』も証明できません。
あの世が『ある』と思った方が、死の恐怖から逃れられるのではないでしょうか?
『死んでも終わりではない』と、あの世は『ある』と思った方がいい、残された人々の記憶の中で、故人が生き続けることは事実です。
死について感じ、考えることをタブーとしない方が人生は豊かになるのではないかとおっしゃっていました。

今回の特別講義を拝聴して感じた事は、『死』というものは生きている中では必ずあるもの。
『死』をどのように受け入れ、覚悟する事ができるのかというと、『あの世』の存在を信じることで、『死んでも終わりではない』という『安心』へつながり、今生きている私も、お釈迦様が見守ってくださり、『あの世』へ導いていただけると思うと、『死ぬための道しるべ』ができているのではないかと感じました。

今回の特別講義をしてくださいました、勝桂子先生と勝桂子先生のご息女の今律さん、貴重な体験をさせていただきましてありがとうございました。

死の覚悟=生きる使命の発見 ~宗教にしかできない事~ 

池上 市民大学

死の覚悟=生きる使命の発見 宗教にしかできない事勝 桂子(すぐれ けいこ)先生の特別講義が行われました。