一度は住んでみたい豪邸

時々よそのお宅に上がらせていただいてお経を読むことがあります。
お盆の棚経もそうですが、年回の法事などでもご家族に外出がかなわない方がいらっしゃるなどの事情で、自宅でと依頼されることがあるからです。

そうやって訪ねていきますと、たまにえらく立派な豪邸に行き着くことがあります。
家というよりは御殿といった方がいいでしょうか。中に入らせていただくと、お仏壇もどこもかしこも立派。調度品なども贅を尽くされた感じが伝わります。
そういうお宅でお経をすませ玄関を出ると、一生のうち1回くらいはこういうところに住んでみたいなとか、都会なのに庭や縁側のある家はいいなとか、その都度いろいろな求が自分の心からわき出てくるのがわかります。

そういう求がもたらす問題は、自分ではかなえられないことが多いということです。仏教では自分では何ともし難いことを求め、それがかなえられなくて心が穏やかでなくなることを「苦」と言います。その代表的なものが、生を受けた以上、老病死は免れないという四苦です。この世は苦だらけ。しかも自分ではさばき切れないほど、大小じゃんじゃんわいてきます。まずはその現実を理解する一切皆苦(いっさいかいく)という教えがある通りです。

しかし苦を遠ざける工夫ができないわけではありません。苦の原因がだからです。
例えば、もしあなたが3億円の豪邸に住みたい。しかしそんなお金はどこにもない。となった時、どうすればいいか。包丁を持って銀行へ行くことはおすすめしません。

そこで私のことでお話ししますと、私は以前、たまたま一度は豪邸というものに住んでみたいと思いながら、日常的な買い物のために近所のスーパーに立ち寄ったことがありました。その時ちょっとした思いつきで、2番目に高いトイレットペーパーを買ってみたんです。

いつもの一番安いのとは、そもそも肌触りが違いました。しかもバラの香り付き。
使ってみて頭に思い浮かんだことは、「この品質なら東京の豪邸どころか、アラブの石油王が使っているレベルじゃないだろうか。さすが日本製」。
はい、話は豪邸を通り越して一気に石油王の宮殿にまで飛びました。
せまい個室の中で、わずか4百数十円の出費がアラブの王族のような? 満足を私にもたらしたわけです。幸いなことに目下のところ、豪邸はどうでもよくなっています。「気は持ちよう」とはよく言ったものです。

ちなみにその時なぜ1番高いものを買わなかったのかというと、それは香りの問題です。実は一番高いトイレットペーパーには「白檀(びゃくだん)の香り」と書かれてあったんです。
白檀と言えばお香です。花の香りもお香の一種になりますが、私が毎朝仏壇で立てているのが白檀のお線香ということもあり、『信心深い私(?)』は商品を目の前に数分かけてじっくりと考えた結果、そういうものをトイレで使っちゃいかんだろうという結論に至ったんです!

例えはどうであれ、かないそうにないことがあっても、そこを出発点として何かしら自分ができる満足の方法を見出せば、口に出すほど卑屈にならずにすむということです。

欲にはキリがないから

今度は、こんなふうに考えてみましょう。
3億円の家に住んでいる人が、5億円の豪邸を見たらどう思うか。
5億円の家に住んでいる人が、10億円の豪邸を見たらどう思うか。

うらやましいでしょうね。このうらやましいという心の状態も、苦です。
こんなふうににはキリがないので、苦も尽きないんです。
他にも自分が幸福だと思う状態を追い求めるあまり、わかっているはずなのに犯罪や不祥事に手を染める人たちが後を絶ちません。そういう人たちの心にあるのは、止むことのない不安です。
一方仏教では、心の穏やかさを保っている安心(あんじん)という状態は幸福であると説きます。いつも心が穏やかでいられるのは幸せなことで、不安ではないからイキイキと生きていけるということです。

自分の努力に応じて高価な物を求めていくのは悪いことではありませんが、仏さまによれば、心が苦にさいなまれる材料を増やすくらいなら一度視点を変えて、今、目の前の現状から満足を見出していくことが、他者と比較したり、むやみにを増長させたりせず心の穏やかさを得ることにつながっていくと説かれているようです。

こういう考え方を法華経の普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぼっぽん)第二十八の中で、お釈迦さまが普賢菩薩に説かれた「知足(しょうよくちそく)~少にして足るを知る」という智慧で示してくれています。

ここで注意していただきたいのは「小」ではありません、「少」です。
仏教で小さいとは、私たちが日常的に抱く望のことを言います。反対語は大で、これは仏さまがあらゆる命あるものに仏になってしいという願いを言います。
そして「無」でもありません、「少」です。
本来は無と言いたいところなのかもしれませんが、仏さまは人が人として生きていく以上、をゼロにすることはできないという現実をお分りだからです。本能的なまでゼロにしたら生きられません。

以前、元駒澤大学総長の仏教学者である奈良康明先生の講演の中で滅諦(めったい)という仏教語が取り上げられたことがあります。滅諦とは、の素である煩悩を消滅させることが覚りにつながるという意味です。しかし奈良先生は、果たしてそれが人間に実現可能な教えなのかという視点から研究された結果、滅と漢訳されたインドの古代語には、洪水などをせき止めるという意味があることに注目し、煩悩があふれ出すのをせき止め、とことん抑制してゼロに近づけた状態を滅と訳したのではないかと説明されていました。仏さまの心にも煩悩はあるのですが、それを徹底的に抑制できているので世俗のにとらわれることがない。実質ゼロ。修行者はこれを目標にしていこうということです。

と言っても、そう簡単にいかないのが私たちです。そこで仏さまは「知足」の教えを通してどんどんふくらんでいく自分のを少し抑え、自分の都合を離れた視点で現実を直視して、そこまで張らなくても実は足りていることが多いという現実を知るべきと説かれるわけです。
なぜそういえるのかと言えば、誰でもこれまでの暮らしの中で、大なり小なりこうありたいという願いをずいぶんかなえてきているわけですし、何より今、あなたも私もちゃんと生きているからですよ。

欲が限りないので、「少欲知足」を考えてみる 一度は住んでみたい豪邸 少欲知足 欲

少欲知足を実践すると

時々仏さまはの中を突き進む「私」の心に、ブレーキをかけて一時停止させることがあります。うまくいかなくて立ち止まるというのは、こういう状態のことではないでしょうか。

私たちは知らず知らずのうちに、にとらわれて周りが見えなくなることがあります。
例えば、自分の願望()のままを求めて行動すればするほど、まわりで割を食う人が出ていることに気づいていますか。
自分がわがままを通せるのは、それを受け入れ、我慢してくれている人たちがいるからだということを理解していますか。
そしてあなたは自分が満足するのと同じくらい、いつもその人たちに尽くしていますか。
尽くしていると思っていても、人の心は十人十色です。必ずしも相手が満足や感謝をするとは限りません。他人が自分のためにしてくれたことが実は迷惑だったという経験は、誰にでもあると思います。
しかも諸行無常(しょぎょうむじょう)の世の中ですから、その人たちがいつまでもあなたのわがままを聞いてくれるとも限りません。

知足の教えは、そういう私の心の状態を客観的に直視させ、自分のの調節と他人さまの役に立つこととのバランスから活路を見出す、にとらわれない生き方の勧めなのではないかと思います。

お経の中でこの知足を実践できている人は、「心が素直で、自分勝手ではないものの見方ができ、善い行いの結果得られるさまざまな恵みにあふれ、人々の頼りになり、つまらない世俗の悩みに苦しめられることもない」と説かれます。どう見てもにがんじがらめになっている人とは違いますね。
仏さまは普段からこの智慧を日常の暮らし方に活用して、どんなこともほどほどに、そして慎重に振る舞い、自分と他人さまに笑顔をもたらす選択を暮らしの指針にしていこうと説かれるわけです。

今月は秋のお彼岸があります。ご先祖に感謝すると共に、仏道修行の期間でもあります。
それまでに我身を振り返っておく材料になれば幸いです。


写真は『法華経』普賢菩薩勧発品第二十八 「知足」を探してみて下さい。

少欲知足について

少欲知足 欲

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