日蓮聖人『波木井殿御報』を味わうこと 日蓮聖人の晩年を振り返る お会式 日蓮聖人

日蓮聖人の晩年を振り返る

今月行われる池上本門寺のお会式にちなみ、池上でしたためられた日蓮聖人の最後のお手紙である『波木井殿御報(はきいどのごほう)』をご一緒に味わってみたいと思います。

宗祖日蓮聖人は念仏全盛の鎌倉時代にあって、大地震や大飢饉などのさまざまな天災や、政情の不安定をはじめ人々の貧困など多くの不安が渦巻く社会を、誰もが安心して暮らせる仏さまの本来の浄土にしていこう、そのために身命を惜しまず法華経への信仰を弘めていこうと「大難は四箇度、小難は数知れず」といった法難(迫害)にも臆することなく、法華経と法華経に込められたお釈迦さまの慈悲と智慧が全てつまったお題目の布教に生涯を捧げられました。

日蓮聖人の晩年を振り返れば、文永八年(一二七一)四十九歳の時、ご生涯最大の命の危機となった龍口法難・佐渡流罪に遭います。龍口法難では斬首されそうになり、佐渡流罪では風雪などの厳しい自然環境下におかれ生きて帰ってくる者はほとんどいないと言われた中、信仰の力で二年以上耐え抜き、幕府から赦され鎌倉に戻られます。
 
その後文永十一年(一二七四)五十二歳の時、日蓮聖人は身延へと隠棲して弟子たちの修行を見守ります。しかしその三年後の冬からそれまでの無理がたたったのでしょうか、体調に異変をきたすようになります。

そして弘安四年(一二八一)五十九歳の時、後に日蓮宗総本山となる久遠寺を建立したものの、翌弘安五年の夏から慢性的な下痢の病状がさらに悪化し檀越の波木井実長(はきい・さねなが)と四条金吾頼基(しじょうきんご・よりもと)から「常陸(ひたち)の湯」にて湯治するよう勧められ、身延下山を決断するにいたります。この常陸の湯は当時波木井公の三男の所領にあった、現水戸市にある隠井(かくらい)の温泉であったと推測されます。胃腸にいいという効能があります。
同年九月八日に日蓮聖人は常陸の湯を目指し、九年間を過ごした身延山を出立(しゅったつ)。

十日後の同月十八日に檀越の池上宗仲・宗長の屋敷に到着しました。
その翌日の十九日、日蓮聖人を身延に招いた波木井実長宛てにしたためられたのが、後に『波木井殿御報』と名づけられたお手紙です。

この手紙は、波木井公に池上の地まで無事に着いたことを知らせる旅の便りでしたが、はからずも聖人最後の手紙となりました。
とは言え日蓮聖人はその時すでに重篤な状態であり、後に池上本門寺をひらく弟子の日朗に墨をすらせ、日蓮聖人の言葉を同じく弟子の日興が代筆し波木井公に宛てられたのです。
日蓮聖人はこのあと一時小康を得たことから弟子や信者の求めに応じて『立正安国論』を講説し、宗仲の懇請に応じて持仏堂(現在の池上本門寺)を開堂供養しました。しかし一方で、死期をさとり本弟子六人〈=六老僧 日昭(にっしょう)・日朗(にちろう)・日興(にっこう)・日頂(にっちょう)・日持(にちじ)・日向(にこう)〉を定め、経一丸〈きょういちまろ、後の日像(にちぞう)〉に京都での布教を託しています。

そして十月十三日辰の刻(午前八時頃)、池上宗仲邸の仏間(現大坊本行寺・ご臨終の間)にて弟子と信徒の読経の声と日昭が打ち鳴らす「臨滅度時(りんめつどじ)の鐘」が響き渡る中、六十年のご生涯を閉じ霊山(りょうぜん)浄土のお釈迦さまのもとへと旅立たれたのでした。この時、池上宗仲邸の庭前の桜が一斉に咲いたといいます(大坊本行寺の「お会式桜」)。

翌十四日戌の刻(午後八時頃)、日昭・日朗によって入棺。子の刻(午前零時頃)に葬儀が営まれ荼毘に付されます(後にこの場所に国宝・多宝塔が建立された)。同月十六日ご拾骨。

同十九日、ご遺言に従いご遺骨は身延山へと出発しました。

波木井殿御報

では、日蓮聖人最後のお手紙を読んでみましょう。

『波木井殿御報(はきいどのごほう)』
謹んで申し上げます。ここまでの旅路では取り立てて変わったこともなく池上までたどり着くことが出来ました。途中、山や川には少々難儀いたしましたが、波木井殿の子弟である護衛のみなさんたちに助けていただきながら難なくここまで来られましたこと、大変有難くうれしい限りでございます。

ここまでの道のりはいずれ帰りにも通る道ではありますが、なにぶん病中の身ですので、いつどこでどうなるやも知れません。本来ならば日本国中の誰もが持て余すような私に、九年間にわたり帰依(きえ)下さった波木井殿のお志は申し上げようもないほど素晴らしく有り難いものでございましたので、せめてどこで死のうとも私の墓は身延の沢に建てていただき、これからもお見守り申し上げたいと思います。

また私のためにご用意いただいた栗鹿毛(くりかげ)の御馬はとても立派で頼もしいので、いつまでも手放したくはありませんし常陸の湯へも引き連れて行きたいところですが、もしかしたら道の途中で人に奪われるかもしれません。それでは御馬が可哀想に思いますので、湯より帰ってくるまでの間、上総(かずさ)の藻原(もばら)殿(※場所は現千葉県市原市)に預けておきたいと思います。しかし見知らぬ家来の方に御馬をおまかせするのは不安に思います。私が戻るまでこれまで同様波木井殿の護衛の方にお世話いただくようにいたします。そのようにご承知置き下さい。恐々謹言
   九月十九日   日蓮    
進上 波木井殿 この手紙をお付きの方に託しました
なお、病中につき署名や花押(かおう)を省略しましたこと、恐れ入りますがお許し下さい。


『波木井殿御報』原文
畏み申し候。みちのほど(道程)べち(別)事候はで、いけがみ(池上)までつきて候。みちの間、山と申し、かわ(河)と申し、そこばく大事にて候けるを、きうだち(公達・きんだち)にす(守)護せられまいらせ候て、難もなくこれまでつきて候事、をそれ入り候ながら悦び存じ候。

さてはやがてかへりまいり候はんずる道にて候へども、所らう(労)のみ(身)にて候へば、不ぢやう(定)なる事も候はんずらん。さりながらも日本国にそこばくもてあつかうて候みを、九年まで御きえ(帰依)候ぬる御心ざし申すばかりなく候へば、いづくにて死に候とも、はか(墓)をばみのぶ(身延)のさわ(沢)にせさせ候べく候。

又くりかげの御馬はあまりをもしろくをぼへ候程に、いつまでもうしなふまじく候。ひたち(常陸)のゆ(湯)へひかせ候はんと思候が、もし人にもぞとられ候はん。又そのほかいたはしくをぼへば、ゆ(湯)よりかへり候はんほど、かづさ(上総)のもばら殿のもとにあづけをきたてまつるべく候に、しらぬとねり(舎人)をつけて候てはをぼつかなくをぼへ候。まかりかへり候はんまで、此のとねりをつけをき候はんとぞんじ候。そのやうを御ぞんぢのために申し候。恐々謹言。
   九月十九日   日蓮     
進上 波木井殿 御侍
所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候事、恐れ入り候。


日蓮聖人最後のお手紙は、聖人を自身の所領で9年間、そして最後の旅にいたるまで身も心も尽くしてくれた波木井実長公への感謝であったことがうかがえます。

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お会式にちなんで

日朗と日興の前に横たわっていたのは、かつて四度にわたり命を奪われかけても法華経への信仰とお題目を弘め続けた勇猛果敢な日蓮聖人ではなく、病に冒されもはや筆を持つことすらままならない一人の老僧の姿でした。
さぞかし墨には弟子二人の涙もこぼれ落ちていたことでしょう。

お手紙に少し触れておきます。
まず「山や川には少々難儀」とありますが、実は少々どころではなかったと思われます。というのも日蓮聖人一行が進んだのは、身延から富士山の北側をまわっていくルートだったということがわかっています。この道のりは遠回りでしかも急な山道が続く難路です。
富士川にそって南下して行けばもっと楽にたどり着けたはずですが、その先は日蓮聖人の信仰と反する北条氏の所領が多かったため、波木井公や護衛に迷惑がかかってはいけないからという配慮だったと伝えられています。この難路を無事に通過し、池上まで「難なく来られました」と護衛をたたえ、波木井公に感謝しているわけです。

また日蓮聖人は「いずれ帰りにも通る道」と言いながらも、病状からもう身延に帰ることはないだろうと察していたのでしょう。波木井公が用意してくれた馬の心配や戻す手配、死後も波木井公を見守りたいなど、この波木井殿御報から死期を悟った聖人のいろいろな心配りがうかがえます。

日蓮聖人のご入滅を悼み、法華信仰を身をもって弘めた遺徳を追慕し、同時に「日蓮が慈悲広大ならば、南無妙法蓮華経は万年の他、未来までも流布すべし(報恩抄)」と今もって私たちを教え導く日蓮聖人のありがたさやよろこびを感じ、そのご恩に報いる思いを改める行事が、全国の寺院で行われている「お会式」です。日蓮聖人ご入滅の地である本門寺のお会式では、江戸時代からお逮夜(たいや)にはたくさんの万灯(まんどう)で盛大な法会が行われ、翌朝8時には「臨滅度時の鐘」とともにしめやかな法要が行われています。

ここで池上の地に伝わるお会式の「二度参り」と「一夜法華」にも触れておきます。
伝えによると、武蔵の国に入った日蓮聖人一行はまっすぐ池上宗仲公の邸宅(現在の大田区池上)に着いたわけではなかったそうです。地図が簡単に手に入る時代ではないので不思議なことではありません。
聖人一行が池上到着前夜に行き着いた先は(当時現在の品川区大井にあった)「万福寺(まんぷくじ)」というお寺でした。日蓮聖人の容態をみたご住職は、迷うことなく一行を一晩お堂に泊まらせたといいます。こういったご縁から、かつて本門寺のお会式では大堂に万福寺のご住職の席が設けられていたほどです。
そして戦前の池上でお会式の時に盛んだったのが、万福寺、本門寺の順にお参りするという風習で、これが「二度参り」と呼ばれています。
もちろんこれは日蓮聖人一行の足跡をたどるだけではなく、聖人一行が一泊お世話になった万福寺でお礼参りを申し上げ、それから本門寺の日蓮聖人のもとへお参りするというもので、今も池上の皆さんが中心となって大事にされている信仰の証です。
またお会式の夜ばかりは本門寺一帯では、宗旨宗派を超えたお祭り騒ぎとなっていたことから、「一夜法華」と呼ばれていたそうです。

皆さんも地元のお寺のみならず、本門寺のお会式にもお参り下さい。二度参りもおすすめです。


万福寺…もとは密教の寺院であったと伝えられる曹洞宗のお寺。
建久三年(一一九二年)源頼朝の命により、荏原郡大井郷道塚(現在の品川区大井鹿島の浜辺) に建立された。元応二年(一三二〇年)に火災にあい、現在地の大田区南馬込に移転される。
境内には、聖人一行の宿泊のお礼として贈られたという「鬼子母神像」や寺の裏手に住んでいた室生犀星の句碑がある。


写真は大坊本行寺ご臨終の間、大田区南馬込万福寺

『波木井殿御報』とお会式について

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