数字では実感できない

秋と言えば、サンマの美味しい季節などいろいろありますが、毎年秋と春に「全国交通安全運動」が実施され、事故防止のために交通ルールを守りマナーの実践を促す呼びかけがなされています。また春秋のこの運動と連動し、「交通事故死ゼロを目指す日」も設けられています。

突然ですが、
日本全国で1年間に交通事故にあう方の人数をご存じでしょうか。

警察庁によれば、昨年1年間に起きた交通事故はおよそ53万7000件、そして4000人以上の方々が交通事故死されているそうです。
この4000人以上というのは、近年毎年このくらいの数字に落ち着いています。この原稿を書いているのは9月29日ですが、今年の1月1日から昨日までの間、全国ですでに2737人の命が交通事故で失われ、昨日1日で12人の方々が亡くなっています。
この人数をごらんになってどのように思われるでしょう。

多くの方は「たくさんいるんですね」とおっしゃることでしょう。
しかし過去に身内や大切な方を交通事故で亡くされた方の思いには、無念な気持ちもあるのではないかと思います。その無念とはその方の死が、不幸にも後に続いてしまった方々の役に立っていないということです。

数字というのはとても具体的で実態をわかりやすく示してくれますが、その一方で実感に欠けるような気がします。
たとえ故人が1人でも、家族をはじめその方とつながりのあるたくさんの方々が、それぞれにどれほどの無念さや悲しみや怒りを持つのか、そういう感情の連鎖がどこまで、いつまで続いていくのかという視点も持っておかないと、ただ亡くなった人の数を知ったというだけで話が終わってしまいかねないと思うんです。

また交通事故の残念なところは、誰もがその直前まで自分が「事故を起こす」「事故にあう」とは思っていないことです。
残酷に言い換えれば、そして今年も例年通りの数に落ち着くならば、全国で今年中に事故死することになっている方はあと1200人以上残っており、今そのことを気にもせず、未来のことを考えながら普段通りの暮らしを送っているわけです。
そしてさらに恐ろしいのは、あなたも私も、残り1200人の1枠を埋める候補者だということです。

交通事故は想定外に起こるもので、もし今日死亡事故に遭うとわかっていれば、それまでに誰々に会っておけばよかった、あんなこと、こんなことをしておけばよかったとか、昨日家族そろってご飯を食べておけばよかったなど、いろいろな無念が残るのは当然のことです。
突然聞かされた側にとっても、もう会って話をすることができないとか、あるいはただ呆然とするばかりで何も考えられない、加害者側を恨むなどといったことが起きます。

本人のみならず、事故は遺されたほうにもとても大きなダメージをもたらすものです。

交通事故には気をつけましょう 数字では実感できない 交通事故 信号

日常的にある実例

それでも過去の事故が生かされない実例は、ごく日常的に見られます。

私は池上と蒲田をつなぐ大城(おおしろ)通りの歩道を毎日のように歩いていますが、以前横断歩道で赤信号が変わるのを待っている小学生の女の子のすぐ脇を、中年のサラリーマンが何の疑いもなく渡り始めました。私は子どもの前ではやめたほうがいいと声をかけみましたが、彼は知らん顔をしてそのまま堂々と信号無視して歩いていきました。

つい最近も自転車の後ろにお子さんを乗せた若いお母さんが、赤信号を無視し、近づいてくる車が何とかブレーキを踏まないタイミングで道路を渡っていくのを見ました。しかもスマホを片手に持ちながら。
そのタイミングでいつもうまくいくとは限りません。スマホに気をとられて車を見落としたり、バランスを崩して転んだりするかもしれません。
事故は自分の意志とは関係なく起こるものです。

そんな子どもたちのお手本にならない大人たちに言いたいのは、経験上大人のほうが、子どもより危険を察知する能力が高いのはわかりますが、それでもあらゆる世代で交通事故が起きている以上、それは決して完璧な能力ではないということです。
そして次世代をになう子どもたちは、これから常に大人のマネをしながら生きる知恵を蓄えていく人材だということです。
もし子どもが“「私」のマネ”をしただけだと信号を無視し、車にひかれでもしたらどう責任をとるんでしょう。とりようがありませんね。

ちなみに昨年の交通事故での“死傷者数”を5歳刻みの年齢層で見ていくと、1番少ない0~4歳でも1132人もいるんですが、断トツの1位は5~9歳の4853人という数字が示しているとおりです。こんな小さな子どもたちがたくさんの事故にあっているんです。
そこまで考えて信号無視をしている大人の歩行者などいないでしょうが、せめて子どもたちの前では信号無視をしてほしくないと思います。

さらに大人なら、軽い気持ちの信号無視がルールを守って運転しているドライバーの一生を台無しにしたり、その家庭を崩壊させたりすることがあるというのも考えるべきだと思います。実際、交通刑務所にはそういうドライバーもたくさん収容されてます。
自分の安全を守るということは、他人の安全や安心も守ることにつながると考えていただきたいと思います。

ほかにも、私がまだ“かわいい”と近所の大人たちから言われていた幼稚園時代、園の外をみんなで歩くたびに先生たちから「右側を歩きなさい!」と大声で注意されていました。
しかし大人になってから周りを見渡すと、その時も将来も交通事故に少しでもあわないようにという先生方の願いが、注意に込められていたんだと気づきました。
そう思うと、単にルールを守りなさいということではなかったんですね。

皆さまご無事に

仏教の言葉に貪(とん)、瞋(じん)、痴(ち)の「三毒(さんどく)」というのがあります。いわゆる煩悩(ぼんのう)の代表で、
貪は、欲にかられて必要以上に求めること。
瞋は、思い通りにならず怒りに支配されること。
痴は、貪や瞋を招く根本的なおろかさ。
を言います。

三毒を歩行者の信号無視に当てはめると、
ルールに従うより自分勝手な都合に合わせようという欲にかられて道路を渡り(貪)、
注意されればバツが悪いと怒りをぶつけたりそのかわりに無視をしたり(瞋)、
自分のみならずそれを見ている子どもや、無事を祈り心配してくれる人のこと、あるいはドライバーの生活などに気づきもしないというところに根本的なおろかさ(痴)
があるように思われます。やはり気をつけないといけません。

最後に、
私が以前勤めていたお寺によく来ていたおばちゃんがいたんです。数十年にわたって毎日のように自転車でお寺に通い、誰に言われるまでもなく境内の掃除をしたり、私たちの衣(ころも)がほつれたりするとすぐ縫ってくれたり、「あんたがどんな目にあっても仏さまが見ていてくれるから」と励ましてくれたり、時にはうちにもお経に来てなんて言うので、ご自宅に伺い仏壇に向かってご先祖のご回向をすると、手作りの晩ご飯でもてなしてくれたりなどなど、とてもお世話になった方です。
特にお手製のきんぴらゴボウが美味しくって、いつも私がきんぴらばかり食べていたので、お経に行くたびお土産で持たせてくれていました。

私がそのお寺をやめた後もご縁をいただいていましたが、実はそのおばちゃんが2年前の10月、お寺からいつものコースを自転車に乗って帰る途中に、車とぶつかって亡くなってしまったんです。

いろいろな人たちに親切にしていたんですね。お通夜の弔問には近所の方だけでなくお坊さんもたくさん来ていてお焼香は大行列になり、お経が終わってもまだ続いていました。

お通夜が終わり知り合いの人たちとの帰り道、おばちゃんとの思い出話がヒートアップして、みんなで“親切にしてもらった自慢”をしていると、私同様おばちゃんのきんぴらゴボウのファンが多かったこと。
ちなみにご長男さんにご挨拶をした時も、前日の夕食にはきんぴらゴボウが出ていたそうです。家族にも外の人にも愛されていた一品だったことがわかりました。
その後私は何回かきんぴら作りに挑戦しましたが、あんなふうに上手にはできないんです。愛情の込めかたが違うんでしょうね。

事故の細かいもようはご遺族にはお聞きしませんでした。しかしあれほどみんなに親切にして、信仰をもって暮らしていた方でも、突然亡くなってしまうんです。

やりきれないもんですよ。

くれぐれも皆さまがご無事でありますようお祈り申し上げます。

交通事故について

交通事故 信号

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