必殺仕事人の口上

こういう場で言うのも何ですが、私の好きな時代劇に「必殺仕事人」というのがあります。

故・藤田まことさん扮する南町奉行所同心で昼行灯(ひるあんどん)の中村主水(もんど)や、中条きよしさん扮する三味線屋で色男の勇次らの仕事人たちが、お上が振り向かない悪事を裏の仕事で片付け、依頼人の晴らせぬ恨みを晴らしていくという物語です。
その方法は考えものですが、まあ、テレビドラマなので見て喜んでいる分にはいいんじゃないでしょうか。

ドラマの冒頭には口上(こうじょう)、いわゆるオープニングナレーションというものがあり、これが仕事人の仕事方針の説明にもなっています。
必殺シリーズは多くありますが、中でもちょっと気になっていたのが、『必殺仕事人Ⅲ』(昭和57年10月~翌年7月放送)の口上です。語りは歌舞伎役者の四代目故・中村梅之助さんで、初代遠山の金さんを演じていました。

その口上とは、
①世の中の善と悪とを比べれば、恥ずかしながら悪が勝つ。神も仏もねぇものか。
②浜の真砂(まさご)は尽きるとも、尽きぬ恨みの数々を、晴らす仕事の裏稼業。
③へへっ、お釈迦さぁ(様)でも気がつくめぇ。
というものです。ちょっとみていきましょう。

①の「恥ずかしながら悪が勝つ」とは、誰に対して恥ずかしいと思っているのでしょう。おそらくみんなそろって悪いことはしちゃいけないなんて言いながらも、なかなかその通りにならずに悪が勝つ世の中になってしまっていると、これは世間さまに対してのような気がします。そしてそういう世の中では善人の努力ではなんともならないことがあるという思いが、「神も仏もねぇものか」という嘆きになっているのでしょう。平成も28年ですが、相変わらずの世の中が続いているのでしょうか。

②の「浜の真砂」とは砂浜の細かい砂粒のことで、数え切れないほどという意味になります。お経の中で砂と言えば「恒河沙(ごうがしゃ)」という言葉があり、インドのガンジス川の砂粒という意味ですが、これも“数え切れない”という数の単位になっています。浜の真砂は海に囲まれた国の感覚でしょうか。
その真砂の砂粒の数よりも多い人々の悲しみや恨みを、裏の仕事で1つずつ晴らしていこうということのようです。

そして問題の③です。「へへっ、お釈迦さぁでも気がつくめぇ」。
いえいえ、そんなことはありません。ここは反論しておきたいと思います。

法華経の如来寿量品・自我偈に、
われ常に衆生の 道を行じ道を行ぜざるを知って 度すべきところに随って ために種種の法を説く(我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法) ~仏はいつも、私たち一人一人がどのように仏道を実践したり、道をはずれたりするのかを見極めながら、「私」が身を滅ぼさず悟りに導くのに必要な教えを、さまざまな手段を使って説くのである。

むしろ、「お釈迦さぁはお見通しでしょうがね」とするのが正しいと思いますが、それでは仕事人も仕事がしづらいので、気がつかないはずと言い聞かせているのかもしれません。
この辺りが①の「神も仏もねぇものか」の解決の糸口になりそうです。

お釈迦さぁでも気がつくめぇ 必殺仕事人の口上 必殺仕事人 中村主水

この世は生き地獄?

必殺シリーズの口上を調べてみると、けっこう〈仏教の言葉〉が出てくるんです。

いくつか紹介しますと、
「神や〈仏〉がいなさって悪を罰して下さると、小さい時に聞きました。それはやさしいなぐさめと、大きくなって知りました。やさしさ頼りに生きてはきたが、やさしさだけでは生きてはいけぬ(必殺からくり人)」。
どう思いますか? 悲しいですね。それから
「この世とあの世の境の場所に、船を浮かべて待っている〈三途の川〉の渡し人(必殺渡し人)」、
「恨みを晴らす仕事人、〈陰膳(かげぜん)〉すえて待っておりやす(必殺仕事人Ⅳ)」。
などなど。

裏の仕事の方法が方法だけに、始末するほうもされるほうも当事者は全員揃って地獄行きでしょう。
また仕事の依頼人は常に弱い立場の人であり、始末されるのは社会的な立場や地位に関係なく悪事をし放題の人ばかりです。そうなると、まさに「どうせこの世は〈生き地獄〉(必殺仕舞人の口上より)」となるのでしょう。

日蓮聖人は、『一生成仏抄』の中で、
衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云い、穢土(えど=けがれや苦に満ちたこの世・国土)と云うも土に二つの隔(へだ)てなし。ただ我等が心の善悪によると見えたり。衆生と云うも仏と云うも又々かくの如し。
と、おっしゃっています。

この世は仏さまの国、浄土であるから隔てるものは無く、本来はどこも清らかで穏やかな社会のはずなのに、それを〈生き地獄〉だと言うのなら、私たちは苦や心配に満ちた社会のままにしておくべきなのか、平和で住みやすいものにしていくのか。あるいは私たちが苦を抱え心配や迷惑をまき散らす人間のままでいるのか、それとも和やかに安心を振りまく人になるのかというのも、全て私たちの心がけ次第なのだよとご教示されています。

仏さまの慈悲と人情

必殺シリーズは一話の見せ場が人の命を絶つシーンというドラマながらも、仏教に関わる言葉が多いのは、ご先祖から受け継いできた神仏への信仰というものが、時代劇の中にも反映されているということでしょうか。

よくみると中村主水が悪人を切り捨てた後のセリフにも、神仏への畏敬の念がうかがえます。
いくつかあげますと、「〈閻魔さま〉には、俺が仕事人だっていうことは内緒だぜ」。「〈地獄の釜のふた〉が閉まらないうちに早くいきな」。祠(ほこら)の前で悪い役人を始末した時に小銭を祠にポンと投げて「これは〈永代供養料〉だ」。はたまた悪に加担した僧侶には「〈お経〉は自前で頼むぜ」なんていうのもありました。 
やっぱり悪いことはしないようにしようと思います。

脚本上のこととはいえ仕事人の裏稼業は、まず依頼人がいて、密偵が事実関係を調べ上げてから実行に移されます。また劇中に主水が、仕事料(依頼金)が無ければ裏の仕事をしないのは報酬のみならず、事情はさておき、その時の怒りや情にまかせて片っ端から人をあやめないようにするためと明かす一方で、当時お蕎麦が1杯16文くらいしたそうですが、三味線屋の勇次は「まっとうに働いた金なら5文でも10文でも」と言い、仕事料の大小に関わらず仕事を引き受ける姿勢から、その土台に人情があると読み取れます。

私は先祖代々受け継がれてきた日本人の人情とは、仏教公伝以来、千数百年かけて仏さまの智慧を中心に培われてきた宗教心、道徳心のことだと考えています。災害などの非常時でもごくありふれた日常でも、仏さまの教え、慈悲の心が人情というかたちになって私たちの間で交わされているのではないでしょうか。
暮らしの中でそういう人情に触れ、ちょっとしたことでも幸せを感じることがあるなら、「神も仏もおわします」という感覚が持てませんか。

あなたのところにも仕事人の密偵が…、いえ仏さまがいつもちゃんとご覧になっています。

必殺仕事人から仏さまの慈悲を学ぶこと

必殺仕事人 中村主水

お釈迦さぁでも気がつくめぇ必殺仕事人の口上