京都ちょっと小噺 六波羅密寺 平家一族が得た力 京都 小町寺

六波羅密寺 平家一族が得た力

聖地は穢れ(屠り=ほふり)の場でもあります。行われる儀式は神聖を表すと同時に、供物のために血が流される穢れの場所でもありました。穢れとされる死には霊力が宿るとされ、その霊力を得る聖地でもあったのです。

京都東山にある六波羅密寺は、かつては広大な寺域を擁し、平安末期には平清盛や平氏一族の館も六波羅にありました。六波羅は嵯峨野(化野=あだしの)、蓮台野(紫野)と共に京都三代野の一つである鳥辺野にあります。
現在は鳥辺山墓地や西大谷本廟にまとまっていますが、かつては埋葬地であり亡骸を遺棄する場でもあったのです。そのため、あたりはひどい悪臭が漂っていたことが想像されます。
平家一族は、死者と共存することで、その霊力を得ようとしました。


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袈裟

京都の浄土宗に関係する左京区にある元黒谷と新黒谷は、昔の人の亡骸を遺棄する場でした。あえてこのような場所で修行をすることによって、死者の霊魂による力を得られると考えられたのです。
ご遺体や亡くなった方が身に付けていた衣が散らばっており、野犬もおります。あたりには恐ろしい光景が広がっていたそうですが、修行者はその中から死者から衣を取って集め、洗って自分用の衣服としました。
様々な亡骸が身に付けていた衣には、強い霊力が宿っているとされるためです。

袈裟(けさ)は梵語のカシャーヤに由来します。死者がまとっていた衣をつないだ長い布を、当初はサリーのように肩に掛け、身体に巻きつけたそうです。
聖徳太子は遊行中に、道端で倒れている人に遭遇した際、自らの衣服をその病人に掛けてやりました。この人が死んだ後、自分の衣を取ってこさせ、聖徳太子はこれを纏ったといいます。
この病人が実は仙人で、霊力を聖徳太子に宿したといわれています。

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京都「小町寺」 小野小町終焉の地

京都の比叡山は現在も修行の場として有名ですが、平安時代、このあたりがかつて「地獄谷」と呼ばれていました。北山の西塔の谷の部分は地獄谷と呼ばれ、人々の亡骸を遺棄する場所だったそうです。

この地獄谷で、起こった不思議な出来事が『今昔物語集』(巻第十五 北山餌取法師往生語 第二十七)に綴られています。

比叡山で修行中の延昌僧正が、北山の奥へ入って道に迷った時のことです。谷のほうに一軒の家を見つけ、ホッとして家の戸を叩きます。中には女と老僧がいました。
僧正が薪の上に腰をおろしていると、老僧は何かの荷を解き、そこから女が受け取ったものを刀で小さく切り刻んで鍋で煮て食べました。僧正はさては殺傷を生業とする怪しい家に入り込んだと思って、眠らずに起きて様子を見ることにしました。

後夜(ごや)の勤行を行う頃、老僧は起き出して沐浴し、服を着替えて草庵へ向かいます。僧正も後を追って、様子をうかがっていますと、老僧は火打ち石を打って、仏前に灯明をあげ香に火をつけました。
夜が明けて草庵から出てきた老僧に、怪しい者が熱心にお勤めしていることに不審を抱き、理由を尋ねました。すると老僧は、妻と2人で食べるものがないので、捨て置かれた馬や牛の肉を集めて食べていたのだと説明します。老僧は延昌僧正に「私が死んだらこの地にお寺を建ててください」と頼みました。

西塔に戻った延昌僧正は再び修行に励みます。ある時、夢の中で肉を喰らっていた老僧が現れ、自分が往生したと告げます。延昌僧正は補陀落寺(ふだらくでら)を建てて、老僧を供養しました。
延昌僧正はこの不思議な出来事を、村上天皇に奏上したそうです。

現在、京都の補陀落寺は小町寺と呼ばれています。かの有名な小野小町の終焉の地として、観光客にも人気のスポットだといいますから、不思議なものです。

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