常に慈悲を行ずること(妙法蓮華経・薬草喩品第五) 親切にするのは結構難しい 慈悲 思いやり

親切にするのは結構難しい

皆さんは人と関わりを持つ時、親切な人とそうではない人、やさしい人とそうではない人のどちらと仲良くしたいと思いますか?
多くの方は、親切でやさしい人と答えるでしょう。もちろん私もそうです。

人は誰でも親切心ややさしい心を持っています。それなのにいざ他人(ひと)に親切にしようと思っても上手にできなかったという経験はありませんか?

今回はそのあたりの事情と、ならばどうすればいいのかというのを仏さまの智慧にうかがってみたいと思います。これは私の反省の弁でもあります。
 
以前、報道によると東京の繁華街で車と歩行者の接触事故が起きた時、もちろん歩行者の救護に駆けつけた人もいましたが、それを目撃した多くの人は、ケータイで事故現場と人が救急車で運ばれていく様子を撮影していたそうです。
目の前で起こった出来事を記録して友人や他の人たちに伝えるためです。

そこでもしあなたがこの現場にいて、しかも事故にあわれた方が知り合いだったとしたら、多くの人と同じように撮影していたでしょうか。そう考えていくと、よく知っている人や好意を抱いている人だけに思いやりを持って行動するというのは、いかがなものかというところに行き着きます。

とはいえ実際のところはこのような大きな事件でなくても、ごく日常で起こるささいな場面でさえ、ましてや相手が見知らぬ人だったりすると、頭でわかっていても親切に振る舞うのは結構難しいというのが実情だったりするものです。

慈悲とは

そういう私たちにお釈迦さまは、『法華経』 薬草喩品第五(やくそうゆほん だいご)の中で
 「常行慈悲(じょうぎょうじひ) 自知作仏(じちさぶつ)~常に慈悲を行じ 自ら作仏せんと知る~常に慈悲の心を土台にして行動する。そうすれば、将来仏になれるとわかる」
と説いておられます。

仏教の目的は成仏、仏になることです。仏になるとどうなるのかは、仏になってみないとわからないことではありますが、今言えるのは、人間が想像しうる最高の人格を備えたと考えればいいでしょう。

ちなみに作仏の意味も仏になるですが、成仏とは用法が違います。「成」は完成や成就と言うように、できあがった、成し得た状態を言いますが、「作」は完成に向けた作業中を意味しています。この場合、将来的に仏となる過程を歩んでいるとなります。
 
また慈悲というのは相手を思いやって行動しようという意味です。
慈は経験を駆使し、解決に向けて具体的に教え導くということで、慈父(じふ)という言葉があるように父親のイメージです。
そして悲は自ら相手に心を寄せていき、悲しみを共有するということで、悲母(ひも)すなわち母親のイメージです。

こうして慈悲とは父母が我が子にかたむける無償の愛のように、人々に安心をもたらす仏さまのお心、最高の人格を表し、普段は自分の都合ばかりを気にしている私たちが目指すところでもあります。

持ち前の親切心を発揮できるような「私」へ

さてお釈迦さまは、この経文(きょうもん)を通して、私たちに慈悲を土台にした行いを「常に」とおっしゃっています。

例えば私たちに感動を与えてくれるスポーツ選手は、試合がない時はいつも家でごろごろ寝ているわけではないでしょう。練習でできないことは試合でもなかなかできるものではありませんし、選手としての能力を高め、それを試合で最大限に発揮できれば選手としての実力の向上も実感できるからと常日頃から練習をしているはずです。
 

これを経文にそって私たちの日常に置き換えてみると、いざという時ほど親切心を発揮するためには、やはり普段から「練習」しておく必要があるように思いませんか。
それこそ優先席の必要な人が乗ってきたら席をゆずるとか、悪さをしようとしていたら止めてあげるとか、友達が落ち込んでいたらひと声かけたり・・・。
 

実はそんなごく当たり前なことの積み重ねが、いざという時ほど適切かつ存分に持ち前の親切心を発揮できるような「私」への成長につながっていき、そのごほうびに進歩の実感も得られようとお釈迦さまはおっしゃっているようです。
 
ついついこうすればよかったと迷う私たちは、いつも人格形成の作業中です。
そして仲良くしたいのは、いざという時ほど親切でやさしい人と言うのなら、仲良くしてもらうには自分がそういう人になっていかなければ、お互いさまとはなりません。
ぜひこの仏さまの智慧をご活用下さい。
 
そのつど他人へのちょっとした思いやりを積み重ねる、「常に慈悲を行ずる」ことの大事をお話ししました。

法話

慈悲 思いやり

常に慈悲を行ずること(妙法蓮華経・薬草喩品第五)親切にするのは結構難しい