食欲の秋に考える シラスを数えてみた 命 いただきます

シラスを数えてみた

お彼岸が終わり、10月になりました。
いよいよ実りの秋、食欲の秋の到来です。

私の好きな魚にシラスがあります。主にイワシの子どもです。関東では鎌倉や江ノ島の名物の一つである生のシラス丼が有名ですが、街中でも釜揚げされたものや干したものがよく出回っています。シラスの旬は春と秋と言われ、特に秋は1年のうち漁獲量が最も高く旬の中の旬ということだそうです。

私の好きな食べ方は、温かいご飯に釜揚げシラスをしっかりちりばめ、しぼった大根おろしをのせて、大葉を刻んでぱらぱらと。めんつゆとポン酢を混ぜ、それに適量の大根おろしの絞り汁でうすめたタレをかけていただくというものです。付け合わせは薄く切った新生姜の漬け物です。 まあ、いわゆる「シラスごはん」です。
ちなみにこのタレは、ざるうどんのおつゆにしても美味しいです。

それはそうと、ふと思ったのは、自分が食べるシラスご飯にはいったいどのくらいのシラスが乗っているのだろう?  ということで、数えてみることにしました。

今回の釜揚げシラスは愛知県産で、池上の某スーパーにて買ったものです。そもそも小さいものですが、パックには1㎝前後のものが多く、2㎝を超えるものまで大小さまざまなシラスが入っています。普通のご飯茶椀一杯分ならだいたいこのくらいとつかんだシラスですが、途中ちょっと欲ばりすぎたかなと後悔しながらも最後まで数えてみましたら、その数なんと

1048匹。

ついでに、以前とあるお米屋さんから聞いた話によると、お茶碗一杯のご飯はだいたい稲2株分で、3000粒+αくらいのお米になるそうです。

これら2つだけでも、1048+3000=4048。
つまり、シラスご飯1杯で4048の〈〉+大根、大葉、新生姜、調味料の材料となった〈〉をいただくわけです。そう考えると、何やら大変なことをしているような気になります。

しかし数の大小より先に考えることは、人間もあらゆる生きもの同様、ほかの生きもののをいただくことでしか自分のを維持できないということです。

食欲の秋に考える シラスを数えてみた 命 いただきます

命をいただくとは

仏教ではあらゆる経典で「一切衆生(いっさいしゅじょう)」という言葉が使われています。

たとえば『法華経』方便品(ほうべんぽん)第二には、
「化一切衆生 皆令入仏道~一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」
あらゆるあるものを導き、仏の道を歩ませよう

とあります。「衆生」とは生きとし生けるもの、あるものという意味です。お経の言葉は説法を聴く人間に対して説かれたものですが、それでも一切、すべての衆生と言っているのはなぜでしょう。
自然環境的な見方をすればわかりやすいと思います。人間を中心に考えたところで、あらゆる生きものは、他の生きものとの関わり合いの中でしか生きられないという現実があるからです。食べるというのもそういうことです。

私はかつての小欄「誤解しない五戒」の不殺生(ふせっしょう)戒の中で、
「私たちは食べ物を得るために、生きもののを奪わなければ生きていくことができません。食べ物が身体を作っていくとは、例えばそれが魚なら、その魚は自分のと引き替えにあなたのを維持し支えているということになります」
と言いました。
こう考えていくと、食べる=ほかのをいただくこと であり、いただいたに生かされるのが「私」という人間です。体を動かす“燃料”は食べ物ですが、言い方を変えれば、目に見えないを維持する燃料もまたということになります。

仏さまが一切衆生と言うのは、は他のでしか維持できない以上、どんなでも同じ価値というのが仏さまのものの見方です。今回の話に沿えば、私という人間1人のもシラス1匹、米1粒などのも同じ価値を持っているということです。

そうなると今思いついたことですが、仏さまが私たち人間に一切衆生と言い、教えを説いておられるのは、生きものどうしの関わり合いのほか、ひょっとしたらあなたが日々いただいていると一緒に仏を目指せ、ということなのかも知れません。それは重いなあ。

食欲の秋に考える シラスを数えてみた 命 いただきます

命をいただくことに見合う生き方とは

食事の時は他の宗派同様、日蓮宗でも合掌をして食法(じきほう)を唱え、をいただくことへの感謝と目的についての誓いを述べます。
仏教では食を摂(と)るというのも修行の一つで、お寺の中にあれば食堂と書いて「じきどう」と読むことからもそれがうかがえます。みなさんも食法の言葉を味わってみてください。

「日蓮宗食法」 *()内は読み方です
〈食前〉
「天の三光に身を温め、地の五穀(ごこく)に精神(たましい)を養う、これみな本仏の慈悲なり。
たとえ一滴の水、一粒(いちりゅう)の米も功徳と辛苦(しんく)によらざることなし。
われらこれによって心身の健康をまっとうし、仏祖(ぶっそ)の法(おしえ)を守って四恩(しおん)に報謝し、奉仕の浄行を達せしめたまえ」。
南無妙法蓮華経。
いただきます
注)・天の三光…太陽・月・星の三つの光 ・四恩…①生み、育ててくれた父母の恩 ②心身をお互いに支え恵み合う一切衆生の恩 ③この社会で活動できる国主の恩 ④仏さま、教え、教えを伝えてきた、伝えているお坊さん、仏法僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)の恩の4つで、仏教徒が生きるためにいただいている恩のこと ・奉仕の浄行…ひとさまに、ひいては社会全体の幸福に役立つ生き方

仏さまの慈悲は自然の営みにもあらわれ、輝く光が心身を温め、作物は大地に育まれ修行に励む糧となります。水の1滴もお米の1粒でも、天地を通して私たちに与えて下さった恵みですから、何1つ無駄にすることはできません。
またこの恵みの生産から食卓に上るまでには多くの方々のご苦労があり、いろいろなおかげさまがあって私は心身の健康を保つことができます。
私は今生きていられるあらゆるご恩に感謝し、この食事をいただきます。そしてご恩に報いるため、仏さまや宗祖の教えを日常の勤めや暮らしに生かし、みんなの幸せのために努力いたします。

〈食後〉
南無妙法蓮華経 三唱
ごちそうさまでした。

合掌して「いただきます」「ごちそうさまでした」と言うのは、恵み、をいただくこととご苦労への感謝に他なりません。同時に食法は「をいただくことに見合う心構えと生き方」を示してくれています。せめて先師先人から伝わるこういった考え方だけでももっと多くの方々に伝わればいいなと思います。

余談ですが、特別な修行中の僧侶の食事には、“坊さんなら当たり前”をはるかに超える厳しい制限が設けられます。それは修行者の生の維持に必要な分までにをいただくのを抑え、それでも修行ができる感謝とさらなる精進の心を増進させるためです。

と、食欲に影響しそうなくらい堅い話になっていきましたが、このように見ていくと、仏教徒にとっての食も修行と考えられそうです。
とは言え、秋は美味しいものが豊富にあります。食べものを無駄にすることなく、健康のためにも腹八分目。感謝しながら味わい、しっかり食べてお互い日々の努めにがんばりましょう。


では、ご飯ができたので、いただきます。 (・人・)


写真は上からシラス500匹、シラス1048匹、シラスごはん

食と命と生き方について

命 いただきます

食欲の秋に考えるシラスを数えてみた