仏事雑談「500円玉貯金と秋霜のあたりかた」 厳しさの足りない私は、 転倒 500円玉

厳しさの足りない私は、

お坊さんの1年というのはお盆だ、お彼岸だ、お会式だなどと年中行事を1つずつこなしていくと、夏だ、秋だ、もう正月だという流れになっていく。
そうこうしているうちにはや11月。今年も残すところ2ヶ月を切った。そろそろ1年の総括を考え始める時期である。

江戸時代の儒学者で、江戸幕府直轄の教育機関であった昌平坂(しょうへいざか)学問所の塾長を務めた佐藤一斎(さとう・いっさい)は、著書『言志四録(げんししろく)』の中に「春風(しゅんぷう)を以(もっ)て人に接し、秋霜(しゅうそう)を以て自ら粛(つつし)む」という言葉を残している。
春風のような和やかさ、穏やかさでひとさまと接し、秋の霜(しも)に触れた時のように心身を引き締め、慎みなさい。ひとさまに優しく、自分に厳しくといったところだろうか。

そこでこの秋、厳しさの足りない私は、「500円玉貯金」から反省を始めてみたいと思うのである。
というのも、ちょっとした買い物に備えてと、多くの人々の「成功例」にならって今年1月の初めに100円ショップに行って缶切りがないと開けられないドラム缶型の貯金箱を買い、500円玉貯金というのを始めてみたのだ。
ところが思うように貯まらなかったので、気分一新とばかりに夏に再び100円ショップに行って、今度は賽銭箱の形をした“小さめの”貯金箱を買い直して何枚かの500円玉を移し替え、仏壇の前に置いてみたのである。
結果はおわかりだろう。もう11月だというのに、その軽さかげんが深刻なのである。もちろんここからお金を取り出したことは1度もない。

なぜそうなったかと言えば、貯めようとしているつもりが、
・貯金箱に入れるのをすぐ忘れる。
・100円玉5個が1つですむという利便性から、なかなか小銭入れから貯金箱に移せない。
・この買い物なら500円玉1つで充分だ。
500円玉を使えばお釣りをもらわなくてもすむとわかっているのに、それでも1000円札を出せというのか?
他にも500円玉を使わねば足りないということもあったが、いずれにしても高確率で手元に残らない。私の暮らしがそんなに豊かなほうではないということもあるにはあるが、とにかく貯まる気がしない。
動機が弱いからだろうか、いや、私という人間の心の弱さなんだろう。

などと、つれづれなるままに…、心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば…。
それは『徒然草(つれづれぐさ)』だ。関係ない古典鑑賞をして問題を避けたり、作者の吉田兼好の名字がご住職と同じだからといって、不思議なつながりだと本稿を「縁(えん)」の話に持っていこうなどという場合ではない。
いや、待てよ。もはや500円玉への「執着(しゅうじゃく・仏教語)の心を捨てるべき」と言えば、まさに仏教的な解決になるのではないだろうか。
いやいや、それでは目標とともにせっかく買った貯金箱が2つとも無駄になってしまう。危ないところだった。ついつい余談に走るのは悪い癖だ。まったく、よしなしごと(どうでもいいこと)である。

それはさておき、要するに貯めると決めた500円玉をちょくちょく使ってしまう自分がちょっと悔しいのである。軽い貯金箱。心の余裕はしばしばよい結果を導き出すが、この貯金箱の内側に大きな余裕を感じるたび、私の心はどんどん虚しくなっていくのだ。

さて、どうしよう。


仏事雑談「500円玉貯金と秋霜のあたりかた」 厳しさの足りない私は、 転倒 500円玉

先人からの戒めに学ぶ

そう思った時、この期に及んで最初に浮かんだアイデアは、
「そうだ。500円玉が出ないように買い物をしよう!」。
これを軽く否定しつつも次に浮かんだのが、
「できるだけ貯金箱なんて気にしない」。

ダメだ、こりゃ。 完全に“逃げ”である。
心が弱いというより、ずるがしこい。いや、
ずるがしこい ― 賢い=ずるい
私の心など小学生の算数並みに解析可能である。

しかし私は大人である。前々回の投稿記事「お月見によせて」では、ご住職の吉田さんから「博学でロマンティックな記事」と言っていただいたではないか。まさか子どもにあのような文章は書けまい。なので、こんな四字熟語を思い出してみる。すなわち、

「本末転倒(ほんまつてんとう)」

普段は枕にちょうどいいなんて言っているが、この際『広辞苑』様に確かなところをうかがっておくことにしよう。いざという時ほど頼っているのは事実である。
まず本末とは「基本的な大切なものと、どうでもよいもの」。そして本末転倒となると、「根本的な事柄とささいな事柄とを取り違えること」。例文は「公務を休んでゴルフに行くなんて―だ」。
手元の広辞苑様は、16年前、1998年発行の第5版だ。少なくともその時までの執筆者や監修者には、こういう例文を載せたくなるような動機があったようである。いっそはっきりとどこかの大臣や役人にでも聞かせてやればいい。いやいや、ひとさまの批判をしている場合ではない。広辞苑様におかれましては、できるだけ私を本末転倒に誘い込むような例文はおやめいただきたい。

しかし、読めば一目瞭然。よくよく考えなくても、今こうして文章を書いている自分も今までの私の生きざまも本末転倒の連続ではないか。
500円玉貯金の話とはいえ、「根本的な事柄から目を背けるな」という先人の戒めが、何となくでも心に響くのがせめてもの救いに感じる。

問題の所在を明らかにしていただいたところで、広辞苑様のお言葉を心にとどめ置き、礼をなして去ることにする。
先人のお告げを踏まえながらも仏教徒たるもの、悩みは仏さまにおうかがいを立ててみるのが得策であろう。

仏事雑談「500円玉貯金と秋霜のあたりかた」 厳しさの足りない私は、 転倒 500円玉

道筋はつけられた。しかし…

次に岩波文庫の『法華経(下)』をパラパラとめくってみる。

如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六の自我偈(じがげ)と呼ばれるお経の中に、
「以凡夫転倒(てんどう) ~凡夫の転倒せるをもって」
(仏は時空を超えていつも人々を教え導いているのに)凡夫の意識が転倒しているためそれが分からない(ので、目を覚まさせようと言うのである)

という一句があった。凡夫(ぼんぷ・ぼんぶ)とは煩悩から離れられないながらも、仏さまの教えを理解しようとする私たちのことである。そして一般に転倒〈てんとう〉とはひっくり返ることであるが、仏教語の転倒(てんどう)となると心がひっくり返る、つまり判断力を失うことを意味する。
本と末とをひっくり返してしまうのは、まさに心が判断力を失っているからに他ならない。仏さまから見れば、私の心などとっくにお見通しなのである。

そういう私は500円玉貯金をどうしていけばいいのだろうか。

同じく自我偈に、
「汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽 仏語実不虚 ~汝等(なんだち)、智あらん者 ここに於いて疑いを生ずることなかれ まさに断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず」
賢い人々は、疑う心を残らず捨てなさい。心にわき出る疑いを断つことができるよう、ずっと努力を続けてみなさい。仏の言葉は決して無益なものではないから。

とある。「智あらん者・賢き人々」の一言が気になるが、この経文(きょうもん)が示す方針に従えば、貯まらないなんて思わないで、続けていくことが大事となろう。また継続していくことで私自身が賢きに向かっていくととらえればいいのではないか。できなかったことができるようになってくれば、いろいろ気づくことも出てくるはずである。そういうことに違いない。

少なくとも、これでただの“ずるい”から、
ずるい + 賢い=ずるがしこい 
にまでランクアップした気分ではあるが、ここで満足している場合ではない。
やはり目標の設定は大事である。貯まったところで仏教書を買おう。何より励ましていただいた恩返しとして、「仏の言葉は決して無益なものではないから」のひと言をその通りの結果にせねばなるまい。

道筋はつけられた。たぶん…解決。

仏さまの教えとは、曲がりなりにも求めれば、何かしらのことを気づかせてくれるものと思うのである。それは同じく、
「我常知衆生 行道不行道 随応所可度 為説種種法 ~我れ常に衆生の 道を行(ぎょう)じ、道を行ぜざるを知って 度(ど)すべきところに随って ために種々の法を説く」
私(お釈迦さま)は常に人々が、(能力的にも、意欲的にも)どのくらい教えにしたがって生きているか、あるいは手を抜いてしまうのかを知り、それぞれにふさわしい幸福への歩み方にしたがって、あの手この手を駆使して教えを説くのである。

と、あるとおりである。私たち人間が他人の心の内を理解するのは容易ではない。しかし仏さまは身近なところで私たちの心を理解して、ついつい自分勝手な都合やわがままで目標から外れてしまう「私」の生きざまに、くさびを打ったり励ましたりしながらふさわしい教えを説き、幸せな人生を築けるよう軌道修正のきっかけを与えようというのである。仏教ではこういう心の方向性を「慈悲」と呼んで仏さまのお心を指し、私たちの生き方の実践目標としている。

また仏教と照らし合わせるには、500円玉貯金などささいなことと思うかも知れないが、ことの大小を問うより、問題は小さいうちに片付けておくほうが望ましいはずである。
読者諸氏も仏さまの教えにふれる機会があったら、人知れずちょっとしたご自身の出来事を、素直に正直に教えと照らし合わせてみてはいかがだろう。おそらく新たな視点や気づきが生まれ、正邪や選択の判断、加えて自信や心の安定のヒントを得ることができることだろう。
もし私と同じ悩みを持つ方がいれば、私の体たらくともどもご参考にしていただければいいと思うし、500円玉貯金という言葉をご自身の悩みに置き換えると、何かしら気づくことがあるかも知れない。

仏さまの教えは、聴いて気分が良くなるだけではもったいない。仏教とは、仏さまが私たちに「どう生きるべきか」と問いかけ、導く教えである。ならばごく日常的な場面で教えをとらえ、暮らしの現場で試していくことこそ、仏教活用法の大事だと思うのである。


と、偉そうにつづってきたのはいいが、
中学時代、冬休みの宿題で「不断の努力」という書初めを書かされた、というより書かされたと思っていたが、こういう心構えをこれからずっと忘れてはいけないよということだったのかもしれない。仏さまのお言葉を通して、実は30年以上も前に教えてもらっていたんだと、今さらながら気づく。

秋霜のあたりかたが、まだまだ足りないようである。

仏教の活用法について

転倒 500円玉

仏事雑談「500円玉貯金と秋霜のあたりかた」厳しさの足りない私は、