4つのダジャレ

今年の5月、とある講演会でのことです。

お話しをされていたのは浄土真宗の僧侶で大学教授の方でした。お話しの中で教授が、毎年教え子の学生さんたちに覚えさせるダジャレが4つあるそうで、

1. 欲張りはよくない。
2. 仏さまはほっとけない。
3. ブツブツ言わない。
4. 仏さまの好物はホットケーキ。

先に言っておきますと、4番目はただのダジャレだそうです。

1.の「欲張りはよくない」ですが、教授によれば本来なら仏教的に“欲はよくない”と言いたいところを、“欲張りは…”にしたのは、何でも厳格にしてしまったら若い人たちにはかわいそうだから、そして行動力を損なってしまいかねないからということでした。さらに欲のままでは大きなリスクを背負いかねないので、仏さまの教えに少し幅を持たせる言い方をしているわけです。とおっしゃっていました。

2.と3.には詳しい説明はありませんでしたが、1時間半にわたるお話しの中のアクセントとして、会場の笑いを誘うのには十分でした。

でも面白いダジャレなので、今回は3.の「ブツブツ言わない」に乗っかって話を進めていこうと思います。

ブツブツ言わない。 4つのダジャレ 聖徳太子 憲法十七条

発言の自由を保証するもの

よく何かしらのことを決めるのに、意見を聞かれることがあるものです。
私は話し合いの場で、尋ねてきた方の意志や方針とは少し離れているなと感じても、できるだけ自由に意見を言うようにしています。話の腰を折ると議論が進みませんので、できるだけです。
 なぜかと言えば、一つのことに決めるというのは、他の考えを否定することになりかねず、それを理由にあとから「ブツブツ」と言い始める人が、必ずと言っていいほど出てくるからです。
 
これを考えるのにちょっと話しが飛びますが、私たちは信じる宗教を各個人で決めていいことになっています。これは日本国憲法の「信教の自由」という保証が裏づけとなっているからです。
 同様に、言うべき時に意見を言う役目や立場にある場合、もちろん同憲法の「思想信条や言論の自由」は大きな根拠になります。しかしそうは言っても、どんな時でも言いたいように言っていたら話がまとまるどころか、現実の社会生活の中では孤立に向かう可能性のほうが高いでしょう。そこで自分の発言の自由は、何によって保証されるものなのかと考える必要があるわけです。
 私が思う、あるいはできるだけそうしている答えは、自分の考えと合っていようがいまいが、決まったことには従うということです。
そこにあえて条件を付けるとすれば、目標から遠ざかるような問題が生じれば、文句ではなくその都度建設的な提案のもとに修正していく余地を残してもらうということです。
建設的な意見と文句との違いは、目標達成に向けてみんなで話し合うネタになるのが意見で、言い切ったところで発言が終わったり満足したり、あるいは強要を目的とするのが文句だと思います。
 また人間のやることですから、最初から100%達成できなければ無意味などという意見は大部分無視して、みんなでやっておおかたうまくいっていれば、文句を付ける必要はないと思っています。
 
それから議論の中心となる決断を任された人は大変です。知恵をしぼって目標を達成する近道を見極め、器の広さを生かしてもっともバランスの取れる決断をしなければなりません。また選択しなかったことで生じるリスクも背負わねばなりません。ですから私は、予想されるリスクの対策を考えておくためにも、意見は言うべき時に自由に言っておいたほうが、結果的にうまくいくと思っているわけです。

 それで、こういう考えはどこから来るのかと言えば、のちに聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)が作った我が国初の憲法『憲法十七条』なんです。その第十条に、
 
「人の違(たが)うを怒(いか)らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり」
自分と他者との意見が違うからと言って、怒りをあらわにしてはならない。人の心は十人十色である。それぞれに立場や考え、主義や主張というものがある。

「彼(かれ)是(ぜ)とすれば則(すなわ)ちわれは非(ひ)とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ・ぶ、仏教用語)のみ」
私たちは、他者の意見が正しい=自分の意見は間違い、反対に自分の意見が正しいのなら他者のは間違いであるととらえる。ところが必ずしもその自分は聖人ではなく、同様に他者が愚人ということでもない。誰もが苦や悩み、欲をかかえた人間である。

「ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、還(かえ)りてわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得(え)たりと雖も、衆(しゅ)に従いて同じく挙(おこな)え」
こう考えて、もし他者から怒りをあらわにされても、まず自分の過ちを疑いなさい。自分一人が真実を見極めていると思っても、みんなで決めたことに従いなさい。

と、定められた通りです。
ちなみに〈できるだけ〉そう心がけている私自身、目下のところ大きな不都合には会っていません。

和を以て貴しとなす

聖徳太子憲法十七条を制定したのは、『日本書紀』によれば西暦604年、今から1410年前のことと伝えられています。気をつけたいのは、この憲法は過去の遺物や不要なものではなく、いまだに研究され続け、読み継がれている点です。そのくらい長く読まれてきたわけですから、せめて考え方を理解するくらいのことができないと、現代人なのに頭の中身が1400年以上遅れているとなりかねません。
 
聖徳太子は推古(すいこ)天皇の皇太子であり、出家者ではありませんが仏教に精通し、随所に儒教などと共に仏さまへの信仰と智慧が活用されています。先ほどの第十条からも「縁起」という仏さまの教えが伺えます。この社会はあなたや私、そしてあらゆるものとのつながりで成り立っているのだから、そこからものごとを考えるという視点です。そうなると、現代でも何かに付け至らない私たちが、事をなすために活用できるものではないでしょうか。
 
大ごとになるほど目的を果たす道のりは単純ではなく、いちいち怒りをあらわにしたりブツブツ言ったりしていたのでは話しは進みません。文句を言うのは簡単ですが、品のいい振る舞いでもないと思います。
 そもそも第一条には「和を以(もって)貴(たっと・とうと)しとなす」と書いてあり、これに続けて、

「上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん」
立場の違いを超えて心一つに、みんなの心が安心に向かうように議論したなら、自然にみんなで立てた筋道によい結果がともなうようになり、どんなことでも最後はうまくいくものである。

と、うまくいく秘訣は、縁起の教えと和の精神が土台になっていると言えそうです。さらにここからどんなことでもいい結果が生み出されるのだから尊い、と受け取れる気がします。
また和をやわらぎとかなごやかと読めば、仏教の安心(あんじん=ずっと不安から遠ざかること)に通じます。みんなでそういう心持ちに向かうための「困った時はお互いさま」という精神は、日本人が先人から大事に受け継いできたものであり、そして大震災で被災者となった皆さんの振るまいのみならず、世界中の人々から賞賛されているものです。

日蓮聖人も『異体同心事(いたいどうしんじ)』というご遺文の中で、こうおっしゃいます。

「一人の心なれども二つの心あればその心たが(違)いて成ずる事なし。百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず」
一人の心の中に二つの意志があれば、互いにぶつかりあって目的を達成することはない。しかし百人千人集まっても、心を一つにすれば必ず達成できるものだ。

聖徳太子の時代は各豪族の集合体であった古代日本を一つにまとめて、アジアの先進国と渡り合える国にしようという目的がありましたが、今日でも憲法十七条は私たちの社会生活を振り返る時に活用できるものと言えそうです。もっとも十人十色ですから簡単にいかない時が多々ありますが、土台や指針になり得るかもしれないと一度読み返してみるのもいいかもしれません。

最後に、もちろん仏さまはブツブツなんて言いません。
私たち一人一人のこころを、時空を超えて安心に導く教えを説かれています。どうせ口を開くなら、こういうふうに心がけたいものです。

憲法十七条から

聖徳太子 憲法十七条

ブツブツ言わない。4つのダジャレ