暦のはなし~時の鐘と不定時法 時計代わりの時の鐘 時の鐘 不定時法

時計代わりの時の鐘

不定時法の場合、日に日に変わっていく太陽の日中時間を測らなければならないため、単純な現代の時計とは全く違う不定時用の時計を作らなければなりませんでした。そのため日本は世界の時計文化とは違う道を進むことになります。
不定時の時計を作るのは複雑極まりなく、二十四節気には手動で時計を調整しなければならないなど、完全な自動式機械時計を作るのは困難を極めます。それでもついには、ぜんまいを巻くほかは全自動の和時計も作り上げられたといいますから驚きです。そんなことですから、和時計は大名や一部の富裕層しか持てない大変な贅沢品でした。時計が持てない庶民にとっては、お寺の鐘や、時の鐘が時計代わりだったようです。

二代将軍秀忠の頃、江戸に最初の「時の鐘」が置かれます。その後次々と江戸中に時の鐘が設置されました。 時の鐘は鐘を打つ回数によって何時かがわかるようになっています。例えば、子と午が九つ、丑と未が八つ。寅と申が七つ、卯と酉が六つ。辰と戌が五つ、巳と亥が四つとなります。でも、その前に必ず「捨て鐘」とよばれる鐘を三つ打つのが決まりとなっていました。

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時の鐘と不定時法

江戸時代の一般庶民が使っていたのは時の鐘による不定時法で、その読み方は十二辰刻とは違う独特なものです。空が白みはじめ、大き目の星がパラパラと見えるくらいで、室内で手の筋が3本くらい見えるようになったら・・・それが夜明けで「明け六つ(あけむつ)」とし、日の出前の三十分くらいをいい「暮れ六つ」は日没後三十分くらいをいいます。とにかく「だいたい」(←これがだいじ)を基本に、明け六つから暮れ六つまでを6等分、暮れ六つから明け六つまでを6等分します。

「明け六つ」の次は「朝五つ」「朝四つ」と減っていき、午(うま)の刻に「昼九つ」に。午(うま)の刻は現在でも「正午(しょうご)」と使われていますね。「昼九つ」の後は「昼八つ」「昼(夕)七つ」となって「暮れ六つ」に。「暮れ六つ」の後は「夜(宵)五つ」「夜四つ」となり「暁(あかつき)九つ」に。そして「暁八つ」「暁七つ」「明け六つ」となります。数字が減ったり、急に増えたりしてなんだか変ですね。

午と子を「九つ」としたのは、昔の人は「九」を神聖な数としていたことからきているとか。「九つ」の次の刻は9の倍数18、27、36、45、54と計算したのですが、数が大きすぎたため十の位を省略して表すことにしたのだと言います。「九つ」の次を一八ではなく「八つ」次の二七は「七つ」その次は三六で「六つ」四五で「五つ」五四で「四つ」と一桁だけを使って表したのだそう。数を一桁にして、時の鐘を打つ数をわかりやすくしたというわけだったのです。

浅田次郎の「五郎治殿御始末」

改暦や西洋時刻、人々はすぐにそれに慣れていったわけではなかったようです。浅田次郎の短編集「五郎治殿御始末」には、幕府天文方に勤める武士が改暦に翻弄される話や、西洋時計の導入になかなか慣れきれず、遅刻ばかりしてしまう老士官の話など、激動と言っても過言ではない環境の変化に戸惑う人びとの姿を上手く描いています。

登場人物たちが世の中の変化を受け入れながらも、必死に生き方を模索する様を読んでいると、西洋文化である太陽暦や24時間法の導入などが文明開化と謳われた一方で、失われてしまった大切な何かがあったのではなかったかと考えさせられます。

時の鐘と不定時法

時の鐘 不定時法

暦のはなし~時の鐘と不定時法時計代わりの時の鐘