極楽浄土
「浄土」とは仏さまが住む憂いのない浄らかな国土のことを指します。
浄土は仏さまの数だけ存在します。
阿弥陀仏の極楽浄土、大日仏の密厳浄土、釈迦牟尼仏の霊山浄土など無数にあります。
阿弥陀仏は宝蔵菩薩という名で修行をしていた時、一切衆生が極楽浄土に往生できなければ仏に成らないと誓願を立てられました。
そして今、阿弥陀仏として仏に成っているので、その誓願は成就されたということになります。
故に、阿弥陀仏を念じる人は皆、極楽浄土に往生できるというのが浄土信仰です。
「往生」とは極楽浄土に往って生まれることです。
この世を穢れた国=穢土として厭い、極楽浄土に生れることに救いを求めます。
戦争・災害・疫病・飢饉等に遭遇したならば、現世を離れ来世に希望を見出そうという気持ちになることでしょう。
「大往生」は「天寿を全うする」と同じ意味で用いられ、与えられた寿命を生き、苦しむことなく自然な形で生涯を終えることを意味します
。「大往生」は「往生」より理想的で満足感が大きいということでしょう。
また、極楽浄土に往生し、蓮華の上で生前に縁の深かった人と再会することを「一蓮托生」といいます。
苦しみから解放された極楽浄土では、若くして逝った人も、老いてから逝った人も、自分が思う一番良い時の姿で再び巡り会えるという教えです。
そのため極楽浄土は死んでから行くところ、苦しみのない楽園とイメージされているのでしょう。
霊山浄土
この世を厭う極楽浄土の思想に対して、この世に浄土を築いていこうとする霊山浄土の思想は相反するものです。
お釈迦さまは人々を導くために人としての姿を現わしましたが、本当は遠い昔から遥か未来まで、常に存在する久遠の仏であることが法華経には説かれています。
そして、お釈迦さまが晩年八年間に法華経を説かれた霊鷲山がこの世の浄土であり、さらに永遠のいのちを持つお釈迦さまが説法を続けているこの娑婆世界そのものが浄土であると説かれているのが霊山浄土の思想です。
日蓮聖人は、教えを受ける者たちは久遠のお釈迦さまと一体であると述べられています。
そして、私たちの心には仏さまの世界がすべて具わっており、法華経を受持し実践することによって私たちも仏に成ることができるのだと説かれました。
極楽往生を願い、来世の安穏を祈るより、皆が仏と成ってこの世に浄土を築くべきであると主張されたのが日蓮聖人です。
娑婆世界に住む私たちは仏の子として浄土を構成する一員であることを自覚し、成仏を目指しこの世に仏の国=浄土を築こうというのが日蓮宗の信仰です。
そして、法華経を知らない人たちにもこの教えを弘め、ともに仏に成れるように努めていくのが法華経の実践なのです。
どこに行きたいか
信仰についての考え方は、人それぞれ置かれた環境によって変わってきます。
・お墓があるから家の信仰を何となく継続する
・科学的ではないので浄土など信じない
・大切な人を亡くして自分の死後に会うことを待ち望んでいる
・不治の病に侵されたとき、死後の世界に安心を求める
・葬儀や墓はコストパフォーマンスで決める
などさまざまです。
浄土に関する考え方も多種多様です。
死後、浄土から戻ってきた人はおらず、何が正しいのか証明することはできません。
死後の世界=浄土の様相がわからないのであれば、私は今この人生を生き切り、少しでも仏に近づき、この世に仏の国=浄土の小さな砂の一粒でも残したいと思っています。
浄土


